シリーズでお伝えしている「たどる記憶つなぐ平和」1945年の沖縄戦で野戦病院として使われた糸満市の壕が戦後80年の今年、平和学習の場として整備されました。
暗い壕での出来事を知る元学徒が当時を語ることはもうできません。物言わぬ戦跡で誰が何を伝えるのか?問われています。
竣工式 長野県阿部守一知事「貴重な戦争遺跡である糸洲の壕が平和学習の場として整備されたことは意義深いことであると考える」

糸満市にある糸洲の壕、通称〝ウッカーガマ〟80年前、沖縄戦で負傷した多くの兵士が運び込まれ住民も身を隠した病院壕です。部隊の隊長を務めた小池勇助(こいけ・ゆうすけ)軍医を後世に伝える平和学習の場として長野県佐久市が整備しました。
沖縄戦第二野戦病院を語り継ぐ会宮城尊忠さん「平和を子どもたちに伝える場所になってほしい」
野戦病院には看護師として配属された女学生もいました。積徳高等女学校の生徒25人でつくる〝ふじ学徒隊〟です。戦後80年の今年、竣工式への参加は1人として叶いませんでした。
映画「ふじ学徒隊」©️海燕社
13年前に制作された映画〝ふじ学徒隊〟豊見城市の映像制作会社「海燕社」が当時の記憶を残そうと元学徒たちの貴重な証言をまとめたドキュメンタリーです。

1945年3月、ふじ学徒隊を含む56人は当初豊見城城址の第二野戦病院に配属。従軍するか?除隊を希望するか?の調書が取られたといいます。
真喜志光子さん「前から忠君愛国とか国のためにとか教育を受けているから、こんな時は協力国家に奉仕するのは当たり前だと思っていた」
4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると大量の傷病兵が運び込まれ凄絶な治療・看護が続きました。
真喜志光子さん「包帯交換をした兵隊さんの包帯にウジ虫がわいていた。隣の負傷兵が『生きていてウジがわくのか!汚い!』と言うけど、その兵隊も包帯を取るとウジがウヨウヨ」
戦況が悪化し、5月には糸洲の壕へ撤退。6月26日に解散命令を出した小池隊長は必ず生き残って親元に帰り、戦争の悲惨さを後世に伝えるよう学徒たちに伝え自決したといいます。

海燕社 城間あさみさん「小池隊長に〝生き残れ親元に帰れ〟と言われた時みなさん複雑な気持ちだった」
「多分戦後に自分が人生を経ていく上で〝生きて良かった〟〝生き残れという言葉ありがたい〟と思ったと思う」「そこが命どぅ宝をみなさんに分かってもらえるような部隊ではないか」
映画の脚本を手がけた城間あさみさんは12人の元学徒に話を聞く中で亡くなった学徒の遺志も背負っていることを感じていました。
海燕社 城間あさみさん「学徒の1人が〝私は戦後生き残って申し訳なかった〟〝たくさんの人が亡くなっていて生き残っていることが申し訳なくてあまり話したくなかった〟と言っていた」
「隊長さんに言われて生き残ったけど言えないという気持ち」「(それでも)亡くなった方のためにも証言しないといけない」「勇気を振り絞って話したのは年月とともに命の大切さが身に染みたということではないか」
映画が完成した当時、小池隊長の思いに応えた元学徒はその胸のうちをQABのカメラに明かしていました。

宮城トヨ子さん「66年も経って今さらと思ったけど話したりしているうちに自分たちはこういう宿命のもとに生まれてきたのかなと思って」
時が経ち沖縄を訪れる若い世代に地獄のような沖縄戦の実相を知ってもらおうと整備された壕。暗く狭い野戦病院での出来事、そして生と死のはざまで過ごした3カ月を元学徒に代わり正しく後世に伝えるために。
海燕社 城間あさみさん「小池隊長とふじ学徒隊のことは事実」「事実ではあるけど美談でないと思っていて」「隊長さんの気持ちはどうだったのか?学徒の人は故郷に残した家族のことを心配していたと思う」「多方面に考えないと沖縄戦を学んだことにはならない」
「壕に入った時に何を語るのか何を教えるのか何を伝えるのかが大事かなと思う」

戦後80年を生きる私たちが問われています。
それまで積徳学徒隊や積徳看護学徒隊などと呼ばれていた25人は映画の制作にあわせて校章に使われていた藤の花にちなんだ〝ふじ学徒隊〟となった。
他と比べて規模が小さく、当時を伝える場が少ないふじ学徒隊にとって映画はその存在を伝える貴重な資料となっている。
短編ドキュメンタリー「ふじ学徒隊」予告動画