戦後80年の節目に戦争について考えるシリーズ「たどる記憶・つなぐ平和」です。
3回目の今回は沖縄戦が始まるおよそ3カ月前に、国が知事として選んだ人物にスポットを当てます。「沖縄を守った知事」として評価する声があるなか、沖縄で地上戦が起こることを前提に下した行政判断。戦時下だった当時の状況とその後、県民に与えた影響について改めて考えます。
沖縄に戦火がせまるなか官選で着任した最後の県知事です。3年前には島田叡をテーマにした映画が公開され注目が集まりました。
その一方で。
川満彰さん「島田叡の人柄の良さを通して戦争、沖縄戦の実相を伝えるっていう部分で表しているかもしれないんですけど、結果的にこの沖縄戦の実相をですね、おおいかけさせられてしまっているっていうのが僕は見ているなということを思っています」
沖縄戦から80年が経ち平和の尊さを訴える中、戦後、当時の行政手法を評価する声もあります。沖縄戦当時の知事が下した決断がどのような影響を与えたのかを考えます。
糸満市 平和記念公園にある「島守の塔」沖縄戦でなくなった警察官や県庁職員など468人が刻銘、毎年、慰霊の日には総理大臣が訪れ慰霊塔に手を合わせます。
その塔に刻銘されているのが沖縄県知事だった「島田叡」です。
島田叡は1901年12月、兵庫県神戸市で生まれ東京帝国大学を卒業後は内務省に入り、高等文官試験に合格。その後、佐賀県の警察部長などを務めた後、1945年1月12日に沖縄県知事に任命され1月末に沖縄に着任しました。
島田知事のもと働いていた当時の県庁職員は「誠実で穏やかな人だった」と話します。
板良敷朝基さん(当時92歳)「常に優しく接してもらった」「おいとか君とか言わない名前を覚えたら名前を呼んでおられた」「この人達と運命を共にするという気持ちがあったんでしょうね」
着任した島田知事は日本軍から、北部疎開を進めるように軍から要請を受け、1945年、2月10日・11日と2日間にわたり県民に北部疎開を促す告知を徹底して行いました。
沖縄戦に詳しい専門家は北部疎開について次のように話します。
川満彰さん「彼が1月の末に赴任をして、2月10日には、中部南部(避難民)が北部に向かっていけるようにするわけです」「だからものすごい頭脳もいい、動きもいい、人柄もいい、そうすると今度は県の職員たちもこの事実だったら知事とだったら一緒についていけるって、戦争に巻き込まれていく状態が早く作られていくってことになっていくわけですよね」
島田知事は軍の指示のもと、中南部およそ10万人の県民を北部に疎開させる計画を実行にうつします。しかし、北部に避難した県民らは日本軍による食糧強奪や飢えとマラリヤに苦しみ多くの人が亡くなりました。
那覇市に住む金城眞徳さんは沖縄戦が始まる一か月前、県の指示に従い首里の平良町から家族5人で北部に疎開しました。
金城眞徳(83)さん「父が、昭和20年の3月ごろでしょうね、部隊から抜けてお家に帰ってきて、母のツルに言ったんです「やんばるに逃げろ」「島尻に逃げたら死ぬぞ」と言うことを言い残し部隊に戻って言ったんです」
金城眞徳(83)さん「そしたら母は父のおばーちゃん(金城さんの曽祖母)と六か月の赤子と3歳半のぼくと6歳の僕の姉の4名を連れて母1人でやんばるに疎開したんですね」
金城眞徳(83)さん「赤ちゃんは泣いたら大変でしょ強く抱きしめて泣かないようにしたと聞いています」「羽地の向こうではね、みんながみんな貧しいし、お互い少ない食料をね分け合って食べたなということもあるし」
また、島田知事が沖縄戦に備えて発案したのが「義勇隊」の結成でした。日本は戦時中、17歳以上45歳までの男性を兵力として動員していましたが長引く戦争によって兵力が不足、その分を住民やさらに若い人たちに担ってもらう役割がありました。
川満彰さん「中国前線が長引くことによって、人手が足りなくなる19歳、18歳、17歳までおりていく」「16歳、15歳、14歳はどうするかというと北部のほうでは護郷隊に取られていく」「さらにそれに取られなかった人たちがいる。中部でも南部でもそういう人たちが今度は義勇隊として取られていく」
「これこそ根こそぎ動員なんですよ」
1945年4月1日沖縄本島に上陸した米軍は、島を北と南に分断し侵攻を始めると日本軍と激しい地上戦を繰り広げます。戦況の悪化で日本軍と島田知事らは南部への撤退を余儀なくされ、6月15日に糸満の「轟の壕」で警察組織を含む県庁を解散、その後、島田知事は摩文仁の森にて消息を絶ったといわれ遺骨は今も見つかってません。
戦後、「沖縄を守った知事」として語られるなか、川満さんは、北部疎開や義勇隊の遂行に関わった島田を「人柄と立場は分けて考えなければいけない」と評価します。
川満彰さん「中国でいくら残忍な人をしていても家に帰るといい人ですよ。いいおじちゃんですよ。ね、いいお父さんだった。ところが、役柄になっていくと前に突き進んで殺せって言ったら殺さないといけない。その殺したっていう行為を隠してはいけないんですよね本当はね」
川満彰さん「その戦争責任を隠していい人だけが動いていくと人間の本質が見えなるし」
国を守るために判断に迫られた島田知事その判断が多くの県民を巻き込む結果となりました。再びこの惨劇を繰り返さないためにも沖縄戦の教訓と受け止める必要があります。
どんなにいい人でも戦争になると残忍な行為をせざるを得なくなる。この行為一つで多くの命が失われたと考えると沖縄戦は、人がもたらした人災でもあるという見方もできます。だた現在では、台湾で有事が起きた際、離島の住民避難の計画が進んでいる事実もあります。
沖縄戦の悲劇を二度と繰り返さないためにも日頃から行政や社会問題にアンテナをはり情報収集をすることも大切なことです。