戦後65年の今年、ステQでは1945年の日々の出来事を毎日追いかけてきましたが、最後のひと月は、毎週、枠大企画をお送りします。今日は知られざる日本軍の住民虐殺について。沖縄戦では、国民を守るはずの日本軍が、スパイなどの言いがかりをつけ、沖縄の人の命を奪うケースが多発しました。これもその一つです。
10・10空襲 高嶺騏一さん「夕方那覇はもう火の海ですからね。その時に警防団が今夜あたり上陸する恐れがあるから、住民の皆さんは北部か南部に至急避難してくれと」
荷作りする間もなく、ぞろぞろと北に向かう那覇の人達。その中に、騏一さん一家と従妹ら、二つの家族がいました。「ナンミン祭までには帰るつもりだった騏一さん。この時から一家の運命はおかしくなって行きます。国頭村 与那に身を寄せ、年が明けると与那覇岳の山奥で避難生活に入ります。やがて、米軍が上陸。あっという間に北上してきました。
高嶺騏一さん「4月2日3日には米軍は辺土名まで行ってました。僕らは山の上から見ていましたよ。米軍のジープが通るの。」
5月中旬、ついに捕虜になり、那覇から来た30人ほどの避難民は、桃原の空家に収容されました。食糧も支給され、ようやくほっとした数日後。海軍記念日の27日。悪夢が襲い掛かります。
高嶺騏一さん「この通りです間違いない。覚えてるな」事件のあった桃原に来るのは、65年ぶりです。高嶺騏一さん「三上さん!この通りは記憶あるね!こっち側よ、道のこっち側。あの辺。」「窓からね投げられた。こういう雨が降ってましたよ。雨ふりでした」
真夜中に山から降りてきた日本兵が、母屋に黄燐弾を投げ込みました父親はとっさに騏一さんを窓の外に逃がします。高嶺騏一さん「黄燐団投げられて。二発3発くらいじゃないですか。今度僕のうちに小銃3発。2発はおふくろに当たって一発は僕に当たった。ここに」105600ー19「隣のうちはね、二人は火ダルマ。燃えてました。全身。全身で燃えてましたよ、髪の毛も」
母屋にいたおじさん夫婦と騏一さんの母は即死。日本軍に家族を殺され、半狂乱になった父は日本兵を追いかけました
高嶺騏一さん「父は もうなたもってね、敵打つんだと言って、こっちから山に向って走っていきよったですよこの道を」従妹の姉妹は全身やけど。騏一さんは腕をえぐられ、3人は宜野座の野戦病院に運ばれました。その日の父の日記があります。
日記「昭和二十年五月二七日 午前三時頃 桃原ニテ 妻マカト 山のキリコミ隊ニ ハナノ上一発。チプサノ所ニ一発鉄砲ノ玉 二発デ死亡。桃原墓地ニホムル。騏一モ 手ヲ ヤラレテ 宜野座病院へ」
このあと、父は田井等の収容所に移され、そこで、元理容師の腕を生かして散髪係になります。
日記「6月6日 十二人散髪した。煙草も二十本もらった。トシ子、ハツ子、宜野座病院で死亡の知らせを聞いて淋しくなった。」病院では、従妹の姉妹が入院後間もなく相次いで亡くなっていました。
高嶺騏一さん「皮膚は焼けただれてかわいそうでしたよ」「向こうが僕の名前呼んで、水くれと。もうしょっちゅう、これだけ」
やがて腕の怪我が回復した騏一さんは、孤児院に移されました。あまりのショックで、言葉の出ない子になっていました。
日記「6月13日 水曜日 小学校の子供十名散髪して末子・騏一のことを思い出した。無事を祈る 早く子供たちと一所に暮らすことを願フ」「6月27日 水本日 桃原で妻が死んでから1か月デ 先夜ハ淋シク ナイテ夜ヲアカシタ」
桃原では留守中に起きたこの虐殺事件を知る人はいません。しかし、アメリカ軍の報告書には事件の詳細が記録されています。「日本兵らは不意打ちを食らわせて逃げる、という得意の戦法でアメリカ軍に協力している住民に罰を与えているつもりなのだ」と分析しています。父はその後、この敗残兵について調べ、家族を殺したのは 運天港にいた海軍魚雷艇隊だったと話していました
Qお父さんはずっと日本兵意を恨んでました?「ああずっと。戦後もずっと。日本人に対して不信感を持ってましたから。自分の娘とか絶対に日本人には嫁にはやらないと。」
やがて功友さんのノートに 明るい知らせが書き込まれます。「本日ウレシイヒデアッタ。騏一が(奥村君につれられて久志の孤児院から帰ってきた)ウレシイ、涙が出た」
戦後、宜野座の病院墓地が発掘されたとき、騏一さんは従妹の手がかりを探しに行きましたが、何もつかめませんでした。
高嶺騏一さん「でも僕らはしかし、戦争がはじまるまでは日本兵がそういうことをするとは思ってませんでしたよ。良い兵隊さんだと。日本は戦争に勝つと思ってましたからね」「こういう問題はあんまりしゃべりたくないんですよ」「亡くなられた人の、ね。悲惨な最期よ。これを人に言ったところでで、どうなるものでもないですよ」
食糧もない、武器もない恐怖が狂気を産んで、反残兵の目に沖縄の住民がスパイ、非国民と映った・と理解しようとしても,なぜ家族5人も殺されなければいけないのか。理解できない。
私たちの世代は、今更それを責めるということでなはく、追い詰められた軍隊がどうなっていったのか、実際の出来事から目をそらさず学ぶことが大事じゃないでしょうか。