沖縄の初期占領政策に携わったアメリカ海軍将校について、先日お伝えしました。沖縄での経験から、人生半ばで神父となった彼の生涯は、その後も日本と深く関わりを持つことになります。
1945年、沖縄。運動会、遠足、伝統芸能。カラーフィルムに残された躍動感あふれる姿は、終戦直後のものとは俄かには信じられません。当時、アメリカ軍と沖縄県民はどんな関係にあったのでしょうか。
大田昌秀元知事「沖縄の人々は戦争から生き延びたものの、食料品がなくて非常に困っているときに、衣服、住居、テント小屋、食料品を米軍が1年間、無償で配給してくれたわけです」
そうした初期の占領政策を担当した将校の一人が、終戦直前に沖縄に送られた海軍少佐、ニール・ローレンスでした。冒頭の写真を残していたのもローレンスです。軍政府では主に、沖縄の経済面の復興を担当しました。元々はビジネスマン。軍服は着ていますが、戦闘要員ではありませんでした。
大田昌秀元知事「(米軍の)中には非常に知性的な、人間の基本的な権利も大事にしようとする人たちもいて、そういう人たちがいるおかげで辛うじてここまで沖縄は来たんじゃないかと思います」
アメリカに帰国後、外交官としても活動したローレンスですが、沖縄で生と死の狭間を垣間見た経験から45歳で洗礼を受け、神父を目指します。そして、かつて自分が占領した国、日本に戻りました。
ローレンスは日本の短歌にも造詣が深く、英語で詠む短歌という文学表現にも挑戦して、歌集を2冊出版しました。彼の詠んだ歌には、やはり沖縄の風景が広がっています。
「米兵の立入禁止いずこにや島はおほかた占領地の今」(訳:佐藤信子)民間人居住地域に夜な夜なあらわれるアメリカ兵。その立ち入りを禁じる看板を見たローレンスの歌です。
「残りしは鳥居こま犬ばかりなり心にしのぶ普天満神宮」「被災して皿一枚も残らねばまず窯つくり陶工たのまむ」
晩年は長野の教会で神父を務め、民間人の招きで沖縄にもやってきたローレンス。当時知事だった、大田さんも彼と面会しました。
大田昌秀元知事「ローレンスさんみたいに、後に神父さんになられるような方々というのは、戦後沖縄の人々にとっては、精一杯努力して沖縄を良くしようと、戦争で傷ついた沖縄を良くしようということで、努力されたと思うわけです」
小柄で穏やかな笑みを絶やさなかったという、晩年のローレンス。彼は6年前、勤めていた教会で転倒し、96年の人生に幕を下ろしました。
彼の遺志に従い、遺骨の一部は慶良間の海にまかれました。彼は今も、沖縄の海に眠っています。