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戦争当時15歳だった玉那覇清一さんの証言です

玉那覇さん「中学に入ってから勉強らしい勉強はほとんどない。ぼくの同期生は一中健児の塔、向こうにたくさんいます」

県立一中の生徒だった玉那覇清一さんは、通信兵として戦場へ駆り出されました

玉那覇さん「傷病兵がたくさん、自分で動けない人がいるわけ。夜、見えないところ、道端で死なせてくれ、殺してくれという兵隊もいる」

砲弾の雨を潜り抜けた6月末、摩文仁の近くで捕虜となった玉那覇さんは、古知屋の収容所で偶然、いとこに会うことができました。

玉那覇さん「ぼくは家族を相当失ったの。親父、婆ちゃん、弟、妹。いとこの姉さんは僕の家族が亡くなったことを知ってるけれども、まだ子どもだからということで知らさなかったの、僕には」

そして65年前の今頃、収容所から南部の志喜屋へ外出した時のことです。そこには玉那覇さんの出身地・西原の我謝の人がいました。

玉那覇さん「行ったら、我謝の人で『あい、あんたどっからきたの?いつ来たの?』というから、今、山原から(と答えたら)『あんたのいとこはこっちで役所で働いてるよ、お母さんこっちにいるよ』と。母は、僕を見たから帰さない、もう居ときなさい、ということでそのまま僕は志喜屋へおったわけ」

母と再会を果たした玉那覇さんはその後、首里高校に復学し、勉学に励みました。そして65年。

玉那覇さん「戦争はやるなという以外はないです。戦争はやっちゃいかん、どういうことであれ・・・その一言でしょうね」