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アメリカ軍政府と沖縄諮詢会が教育の再建に取り組む中、当時、学校での授業は英語で行おうという動きがありました。

収容所内の治安のため、子どもたちを集めることから始まった戦後の教育ですが、青空教室からコンセットの教室、教科書も作られるようになるなど、学校教育の環境は徐々に整えられていきました。

65年前のこの頃、ニミッツの後を受け継いだスプルーアンス提督は、太平洋地域の軍政府に対し次のような指示を出します。

「すべての年齢者を英語で教育することは最も重要である」

英語を使うことで、アメリカの理念を伝えようという狙いがスプルーアンスにはありました。しかし、教師も教科書も不足する中、すべての授業を英語で行うことは現実的ではなく、実現しませんでした。後に軍政府の職員は、このことを振り返ってこう回想しています。「沖縄の将来に関する明確な決定がない限り(英語での教育は)望ましいことではない…」

アメリカがまだ沖縄の将来について明確な決定をせず、人も物も足りなかった頃。実際には、英語での授業は実施されませんでしたが、その後にできたアメリカ留学や研修の制度は、若者の向学心に刺激を与えました。