県産品を紹介するうちなームーン。きょうは初めての海外編です。
やんばる船こと「マーラン船」。陸上の交通網の整備が整っていなかった戦後、1950年代までやんばると中南部の間を物資を載せて行き来していました。きょう紹介するのは、海外で造られたマーラン船です。
とある工場。船を造っているようです。実はここはアメリカ・カリフォルニア州。製作しているのは沖縄出身の越来治さんです。
治さん「この船を、親父との約束なんですけど、越来文治との約束で、やれって言われたんでやりはじめたんだけど」
治さんの父・越来文治さん。文治さんは外洋で走らせる事ができるマーラン船を造った沖縄で最後の船大工。生涯を木造船づくりに掛け、5年前に85歳で亡くなりました。
越来家は文治さんの父親もマーラン船や渡し舟などを造ってきた船大工の家系です。文治さんは息子・治さんに外洋を走らせる事ができるマーラン船づくりを託しました。
二女・下地フジ子さん「その時、彼と父はもうやるんだという」
マーラン船づくりを約束したものの、設計図は文治さんの頭の中。
四女・新立弘子さん「図面がなく、原型を見て造ること。私は兄貴は尊敬します」
マーラン船は1600年頃から1950年頃まで、やんばるの薪などを那覇や糸満に運ぶ沖縄の海上輸送機関として活躍しました。
息子・治さんがとった手段は、父・文治さんのマーラン船をアメリカに持ち帰り、それを見ながら船をつくる事。
屋良朝信さん「今でも鳥肌立つくらいのそういう気持ちです。すばらしい技術を何年かけ、苦労して出来上がったのかなと」
船を蘇らせる作業は5年も続きました。そしてきのう、アメリカのマーラン船は港の中をすべる様に走りました。
四女・新立弘子さん「みんな、おめでとうって嬉しいです。越来文治が生き返ったみたいです」
長女・島袋良子さん「アメリカから持ってきて(沖縄に)浮かべるのが夢ですね」
船の名前はバンジー(Bunji)と名づけられました。
治さん「とにかく大変でした、難しくて。これからの目標はこの船を20,30と、世界中の港に浮かべる事。チャンスがあったら沖縄にも浮かべたいしね」
アメリカで造ったマーラン船は、外洋を走らせる事ができるマーラン船としては復帰後4隻目。ご家族のひとりは、父・文治さんが生き返ったような気持ちとおっしゃっていました。
それにしても、アメリカ人にとっては見慣れない船だけに、私達にかわって沖縄文化の紹介に一役かってくれるのでしょう。