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65年前の11月。10歳の少年はいっしょに逃げていた両親を戦場で失いました。安里宗次郎さん75歳。65年前の梅雨のころ、両親と弟の4人で南部の自然壕 に身を潜めていた時、父は防衛隊へとられ、壕は日本軍によって追い出されました。
数日後、父は真壁で亡くなったと知人から聞かされます。夫を亡くした母は命を絶とうとしました。
安里宗次郎さん「母親がもうこれは生きておってもどうしようもないとゆうことで,弟だけは外にだして僕と母親はもう水の中に入って死のうと、首まで浸かっていたんだが、寒くて。これじゃあ死ねないと。なんでその母はね・・・寒さに耐え切れなかったというと,その前にお産してたんですよお産した子はすぐに亡くなっていました。」
安里宗次郎さん「その後母親は子どもたちと共に米軍へ投降。山原の収容所へと移された後、衰弱していたため宜野座の野戦病院に運ばれ亡くなりました。」
安里宗次郎さん「ああ、みなしごになったことだね・・・ 親がいないということは、もうつらい、うん,小さい頃は」
65年前の11月ごろ、安里さんは山原から生まれ育った首里へと帰り、首里孤児院で生活を始めます。
安里宗次郎さん「飯はそんなに心配なく食べてはいましたね。ただひもじいだけであって。すくないもんだから。安里さんはこれまで戦災孤児だったことを語ったことはありません。ふるさとに戻った後は仕事の傍ら地域の社会活動に打ち込んできました。」
安里宗次郎さん「もう二度とやっってもらいたくないと、やってはいけないということですね。戦争はあくまでももう人を殺しあうことだから。」