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65年前の10月、茶どころで知られるうるま市石川・山城区の住民が収容所から地元へ帰る準備を始めていました。
戦前からお茶の生産地として知られるうるま市石川の山城区。1935年に住民の共同作業で始まったお茶の生産は、75年が経った現在も地域の特産品として営まれています。しかし沖縄戦は、住宅もお茶工場もすべて破壊。122人の命が犠牲になりました。
65年前の10月末ごろから翌年の3月にかけて、県内各地の収容所から元の居住地へ住民たちが移動を開始。石川・山城区でも、住民たちの住まいを作るために先遣隊が出発します。
これは、当時を知る人々の証言を集めた資料。そこには、当時アメリカ軍に占領され自由に入れなかった地域にお茶作りを口実に出入りし、復興を目指したたくましい住民たちの様子が記されています。
「茶工場を作る名義で、トタンをどんどん運んでね、そのために家を増築し、シマは発展したんだよ」
戦前から住民の暮らしを支えてきたお茶。戦後は住民を結束させ、復興の糧となったのでした。