ここからは2004年におきた沖縄国際大学のヘリ墜落事故についてです。来週の13日で、事故から20年を迎えます。QABではシリーズ「危険性、今も」と題しきょうから4回にわたって当時の学生や行政のトップなど、事故に直面した人たちの証言を辿り、今に連なる問題を考えていきます。第1回となるきょうは、宜野湾市の沖縄国際大学から中継です。塚崎さん。
私が今立っているこの場所は、沖縄国際大学の本館と道路の間にありますヘリ墜落現場のモニュメント前です。こちらは、事故当時から残るアカギの木です。事故であがった炎で焦げた跡が、学生や住民が危険にさらされたことを、いまに伝えています。
20年前の事故では、アメリカ軍が民間地である大学構内を占拠。警察や消防、行政、メディア、そして学生や住民は日米地位協定の壁に阻まれ、何が起きているのか、知る術もなかったのです。
市街地に隣り合う普天間基地は、あの日と同じように、今も存在し続けています。この、沖縄国際大学で20年前におきたこと。そして、沖縄で起き続けていることを振り返ります。
敷地を覆う白い煙・・・鳴りやむことのないサイレン、多くの緊急車両が周りを囲みます。
無人となった大学の校舎では、 非常ベルが鳴り響き、窓の外には、煙を上げながら横たわる大破したヘリの残骸。あの日、この場所であった出来事です・・・。
2004年8月13日午後2時15分ごろ、飛行訓練をしていたアメリカ軍普天間基地所属のCH53・大型輸送ヘリコプターが基地に隣接する沖縄国際大学へ墜落しました。
宜野湾市消防本部 湧川浩さん「大学の敷地内で炎と黒煙が上がり、周囲に部品が散乱しており原型をとどめていない状況でした」
宜野湾市消防本部に務める湧川浩さんは、当時、一報を受けて現場に急行しました。館内放送で「ヘリ墜落」という言葉が響き渡り、当時、署内にいた誰もが最初は信じられない様子だったと話します。
宜野湾市消防本部 湧川浩さん「119番通報の覚知でしたが、通報が鳴りやまない状況でした。ヘリが墜落したというフレーズを聞いたときには事務所内の空気が一変しまして一瞬時が止まったような状況でした。全員が耳を疑っていた感じです」
現場に到着後、すぐに消火活動・救助活動を開始。午後3時すぎに火を消し止め、これから警察とともに現場検証を行おうとしたとき軍から、思いもよらない対応を受けます。
宜野湾市消防本部 湧川浩さん「警察機関同様(調査のために現場には)立ち入れませんでした」
軍は、日本の警察や消防を現場から締め出しました。基地の外で、軍の航空機などが事故を起こしても、日本側には現場を調査する権利すら与えられていなかったのです。事故現場周辺では、取材するメディアに対して、アメリカ兵士が規制を行うなど日米地位協定を前に軍の横暴な態度を目の当たりにした瞬間でした。
在日アメリカ軍の幹部と日本の外務省の官僚らで決定した日米地位協定の合意のなかでは、「日本国の当局は、通常、(中略)所在地のいかんを問わず合衆国軍隊の財産について捜索、差押え又は検証を行なう権利を行使しない。ただし、合衆国軍隊の権限のある当局が日本国の当局によるこれらの捜索・差押え又は検証に同意した場合はこの限りでない」と記されています。
つまり アメリカ軍のヘリなどが民間地で事故を起こしても軍の許可がなければ日本の警察や消防は現場を調べることができず、いまも沖縄国際大学へのヘリ墜落事故当時のように締め出されてしまう可能性があるのです。
2015年8月12日うるま市沖合でCH60が墜落
2016年12月13日名護市沖合でオスプレイが墜落
2017年10月11日東村高江でCH53が不時着・炎上
沖国大へのヘリ墜落の後にも、危険な事故が繰り返されています。
県の統計では1972年に沖縄が日本に復帰してから去年12月までにアメリカ軍の航空機による事故が910件起きていました。発生場所は基地の中で678回、基地の外でも232回に上り、1月あたりに1回以上起こっている計算になります。
事故から20年。きょうもあの日と変わらず基地では航空機の離着陸が繰り返されています。
この場所であったことを、どのように記録し、未来へ伝えていくのか、私たちは、常に考えていかなければいけません。次回は9日、当時の稲嶺知事や宜野湾市の伊波市長の証言から事故を振り返ります。