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この写真は1944年の10月10日、10・10空襲に襲われる那覇市の様子。いまの那覇軍港のあたりが爆撃を受け、黒煙が上がっています。この大空襲、そして地上戦の中を生き延びた看護学生の少女は、65年前のこのころ、野戦病院で大けがをした同級生と再開します。
久場千恵さん「見たらもう顔が紫、そしてこれ(口)が開かない。声が出ない。あんたもうどうしてこっちにいるのと」
65年前のこのころ、本島北部の野戦病院で同級生と再会したときのことを語る久場千恵さん。その後、幸い同級生は一命を取り留めました。この1年前の1944年、10月10日の朝、「ドスーン、と、なんかものすごくこう感じる音がしたわけなんですね」現在の那覇商業高校付近にあった県立病院で看護婦養成の教育を受けていた久場さんを、大空襲が襲いました。
久場千恵さん「グラマンと言ったのか、その飛行機が飛んでるのが見えるわけなんですよね。そしたらこの校舎の向こう側に大典寺がありますでしょ、大典寺の後ろ側に積徳高等女学校というのがあったんです。で、そこの屋上から飛んでくる飛行機に向かって高射砲を撃ってるわけなんですよ。あんなほんとに頼りないポン、ポン、といったような感じで」「結局、こっちに軍隊がいますっていうのを教えたようなものと同じですよ。もうそれから猛攻撃ですよ」
爆撃を逃れ、戦場をさまよいながらも沖縄戦を生き延びた久場さん。「(当時は)もう幼児教育からすっかり軍国主義に浸っているわけなんですよ」「(二度と戦争をしないよう)もう政治家が何を言うかをしっかり見ておかないといけないと思いますよ」