戦後から復帰、そして今に至るまで、沖縄の人々の心に流れ続ける普久原メロディー。数々の民謡に加え、芭蕉布やゆうなの花、沖縄のあらたな歌を世に送りだした作曲家・普久原恒勇さんは復帰の直前、一冊の音楽本を出版していました。
アメリカ世から大和世、様変わりしつつある社会のなかで普久原さんが見つめ続け、そして音楽で描いた沖縄の姿を振り返ります。
詩曲「響(とよむ)」、1981年の普久原恒勇さんの作品です。三線や太鼓、胡弓や箏が、歌の伴奏ではなく、独立した楽器として自由なリズムを響き渡らせる、まるで沖縄楽器のオーケストラともいえる画期的な作品です。
作曲家・普久原恒勇さんの作品を集めた公演が今月開かれることになり、いま多くの演奏家が顔をあわせ、練習を重ねています。懐かしい顔ぶれが見えます。フォーシスターズ・伊波智恵子さん、ホップトーンズ・唐真達子さん。60年代から70年代にかけて、沖縄の新しいメロディーをその歌声で響かせた人たちです。
普久原さんの楽曲は400以上にもおよびます。デビュー作「月眺み」から始まる多くの民謡、ホームソング、ポップスから器楽曲まで。
1971年、普久原さんは一冊の楽譜集を発行しました。詩曲「響」が作曲される10年前のことです。民謡が五線譜に採譜され、演奏しやすいようにコードがつけられています。また、そのころ手がけた新しい沖縄の歌もならんでいます。
キャンパスレコード・備瀬善勝社長「ああ、これはすごいね。初版本だね。こんなのがあったんですね」
戦後、沖縄の音楽シーンを見守ってきた備瀬さんにとってもこの楽譜は忘れられないものでした。従来の民謡と、あたらしい沖縄のメロディーがひとつにまとめられた画期的な楽譜集だったのです。
備瀬さん「みんなギター、コードで弾き始めた頃の走りでしょうね。そういう需要があったんでしょう」
ギターや新しい演奏で、当時の人たちに民謡を身近なものにし、普久原さんはさらに数多くの民謡を生み出していきました。
備瀬さん「いま歌われている”沖縄民謡”といわれるもの、歌三線のね。みんなに歌われている歌が一番多いのが普久原恒勇作曲。これがすごい」
楽譜にはその数多くの民謡と並んで、新しい沖縄のメロディーが掲載されています。1960年代から70年代にかけて発表されたこれらの歌は、ラジオやテレビから流れたものです。哀愁をおびたメロディーが人気を呼んだ「ゆうなの花」。
「さやさや 風のささやきに 色香もそまるよ ゆらゆらゆら」
「ゆうなの花」そして「芭蕉布」を歌った唐真達子さん。あたらしい歌がどんどん生まれた当時を振り返ります。
唐真達子さん「皆が一生懸命がんばらないといけない(という時代で)、でもその反面、ストレスも多かったと思うんですね。そういう意味でみんな歌を強く求めていたし。あのときにどんどん生まれた歌が、今もずっと残って歌い継がれてるでしょ、いまも忘れられずに。だからとても不思議な60年代だったと思いますね」
あたらしい歌が生まれた60年代、そして楽譜集の発行された復帰前夜。沖縄が様々な思いを抱えていた時代でした。戦後からアメリカ占領下、そして本土復帰。人々は歌で束縛から解放され、そして歌で新しい沖縄を求めたのです。
備瀬さん「大和世の時(戦前)に全部押さえ込まれた音楽が、戦後一気にぱーっと出てきたわけですね、歌っちゃいかん音楽も。それがしばらくして、『借り物ではない自分たちの音楽』もそういう『新しい音楽』も欲しいという、ちょうど時代とマッチしたんじゃないかと思うんですよね。時代が普久原恒勇を引っ張り出したようなもんです」
『・・・選曲はすさんだ時代にふさわしく、きれいな旋律に動きがはっきりしたものをえらんだ。たいしてとりえのない沖縄に「うた」だけは、かくもたくましく生きている。誰かが、ここにある我がペンタトニック(五音音階)に、こころ病まされたとき、われわれ編者一同の意図が達せられたことになる』―「沖縄の民謡」序文から
「芭蕉は 情けに手をまねく 常夏のくに わした島うちなー」
作曲家・普久原恒勇さんの作品をあつめたステージ「普久原恒勇の世界」は今月17日、国立劇場で開催されます。