Qリポートです。戦後、基地の街と呼ばれた沖縄市・コザでは、アメリカ軍人と
沖縄の女性が出会い、恋に落ちることも少なくありませんでした。
その男女が交わす手紙を翻訳し「恋文屋」とも呼ばれた一人の翻訳家が、36年前の沖縄の女性達を見つめていました。棚原さんのリポートです。
「よくまあやって来たと思いますよ」
仲間徹さん74歳。沖縄市で英語の翻訳をする個人事務所を営んでいます。
仲間さん「(当時の沖縄は)全体として貧乏だった。」「その貧乏ゆえにいろんなことがあったのよ。女性たちにも」
仲間さんが仕事を始めたのは1957年(昭和32年)。軍から流れたタイプライターが仕事道具でした。当時のコザの街は軍人相手の「Aサインバー」が立ち並び、1965年のベトナム戦争、参戦以降は、明日をも知れぬ若い兵士が連日入り浸り、ベトナム景気に沸きました。
吉原啓子さん「最高でしたよあの時の景気は。あれは、今時ああいう商売がまわってくるかねと思う程ですよ」
そこでは、国籍を超えた恋も数多く芽生えました。仲間さんは、その男女が交わすラブレターの代筆を請け負い、「恋文屋」とも呼ばれていました。
時に仲間さんは、女性達の良き相談相手になり、また、国際結婚に必要な行政手続も肩代わりするなど本来の業務を超えた仕事もしていました。
仲間さん「いったん関わりを持った以上、来ている若い女性達が本当に上手くいかないと面白くないじゃない。」
その仲間さんを主人公にした本があります。「恋文三十年」著者は「復讐するは我にあり」で知られるドキュメンタリー作家佐木隆三さんです。
佐木隆三さん「政治的に一番熱かった時代でしょうね」
復帰を挟んだ2年間、沖縄に住んでいた佐木さんは、仲間さんと出会います。
佐木隆三さん「沖縄の事を書くとすれば仲間徹さんがテーマだなと思って」
「恋文三十年」は、国際結婚や、無国籍児など、仲間翻訳事務所にやってくる女性達が抱える様々な問題を淡々と描き出すことで、時代を浮き彫りにしています。
佐木隆三さん「沖縄の中でもAサインバーで働いている女性には偏見とか蔑視があったわけですからね。その人たちを仲間さんが守っていた。そういう印象を受けましたね」
本には、仲間さんの女性達への思いが書かれている箇所があります。
「僕が事務所で関わっている人たちは、社会の全体から見れば影でしかない。いわば隠れた部分だ。だからこそ、自分の仕事を大切にしたいと思っている」
そんな女性達の姿は、他の人の目にも焼きついていました。
我如古盛栄さん「女性としての誇りみたいなものアメリカ人と結婚できる。友達になれる誇っているようにさえ見えたな」
照屋幹夫さん「自分達がイメージとして持っているその人なんか(女性達の姿は)は逞しさというのは未だに印象に残っているんですよね」
生きるために懸命だった女性達。しかし、愛を交わした男女には悲劇も待っていました。仲間さんには、絶対に忘れられない仕事があります。それは、ベトナム戦争に行った恋人の死を知らせる手紙でした。
仲間さん「ああいうのは辛いね」「あの頃はねベトナムの頃は届く手紙も中身も封筒もそうだったけど泥のついたものが多かったですよ」
復帰の1ヶ月前、アメリカ軍は施政権が日本に返還されることを理由に「Aサイン」制度の廃止を発表します。復帰後、コザの街は外国人離れが進み経済は衰退。
賑わった「Aサインバー」も廃業に追い込まれ、仲間さんの事務所を訪れる女性も、年々減っていきました。
仲間さん「やはりあの時復帰して良かったということのほうが大きいと思いますよ」
吉原さん「コザは変わりましたね一番」「(復帰は)良かったと思ってますよ。だけどコザの街は今当時を振り返ってみると本当に基地の街だったんだなっという」
「恋文三十年」から21年の時が経ちました。仲間さんは今でも現役の翻訳家。事務所は今年で51年目を迎えます。
仲間さんは私達にあるノートを見せてくれました。30冊を超えるという大学ノートには数百人に上る、依頼に来た女性達の名前が書き込まれていました。
仲間さん「こういうふうに住所、本籍だけでも留めておけばあとで何か役に立つかもしれないという気持ちだったんですよ」
色褪せてしまったノートには、時代の中で生き抜いた女性達の歴史が刻まれているようでした。
仲間さん「力になってあげんといかんという思いのする客は多かったですね」
今でも仲間さんの事務所には、アメリカから便りを寄せる女性達もいるそうです。
しかし、決して幸福な結果だけではないことも事実です。
復帰前後時代、コザの街はアメリカが中心にあって経済も、そして人生も翻弄された人たちが多くいたんですね。
以上、Qリポートでした。