顔を抑える女性・・・首をロープに巻かれ倒れている人その人に必死にしがみつく子ども。これは65年前のきょう久米島で起きたむごたらしい事件です。
久米島住民虐殺を調査している上江洲盛元さん「首に紐をくくって、道はこっちから海岸のところへ引っ張っていって。見せしめの為に引っ張っていったという風に言われています」
朝鮮出身の谷川昇さんは、島中を回ってスクラップの販売を行っていたため「アメリカ軍とも接触をしているのではないか・・・」と日本軍に疑われ、一家7人全員が虐殺されました。
特集、島は戦場だった。65年前、久米島では軍による住民虐殺が6月23日以降4件発生し、20人が命を奪われました。当時を知る人が減る中で、今だから語れる証言を得ることができました。
「痛恨の碑」久米島出身の人たちが日本軍による抗議をこめて建てたものです。そこから臨めるのは、当時、日本軍陣地があったレーダー施設。当時、久米島には、鹿山隊長率いる日本軍がおよそ30人駐屯。そして6月26日にアメリカ軍が上陸。
喜友村宗秀さん「アメリカ軍と友軍に挟まれて、どこに逃げていいか当時は判断できなかった」
鹿山隊長は住民たちにある命令を下しました。
『アメリカ軍と接触したものが帰ってきたら、直ちに軍駐屯地に引渡すこと。その命令に違反したものはスパイとみなし、その家族はもちろん、警防団長、区長は銃殺する』
その命令のあと0歳から70歳まで20人が無残な形で命を奪われたのです。
当時、島では8月15日の敗戦を知る者はいなかったといいます。
喜友村宗秀さん「(敗戦を知らない友軍は)アメリカにひいきする奴はやるよ(殺す)という状態だった」
譜久里廣貞さん「日本は、勝つとしか考えないから」
喜友村宗秀さん「アメリカ軍よりも友軍が怖かった」
喜久永米正さん「誰かに見られたら、アメリカと話しよったと(日本軍に)告げますから。そうしたらこれはスパイと決め付けていてやられますから。疑心暗鬼で、人を信用できなくなるわけです」
島の中で、日本軍の影におびえていた住民たち。ずっと沈黙を守っていた当時の様子を、やっと語りだしました。
喜久永米正さん「私と喜友村さん二人でお墓から遺骨を出したんです。見たら3人とも頭はないと二人で話したんですよ。それだけ鹿山という人物は、疑い深くて、首を見ない限り信用したないというところがあるわけです」
鹿山隊長は、当時の事を戦後27年目にテレビのインタビューに答えています。
『戦争中の軍人としては当然のことであり、戦争をぬきにして私の行為は考えられない』『島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも島民を掌握するためにやったのです』
事件から65年、島の人の心には深い傷が残ったままです。
喜久永米正さん「友軍の手下となって友軍に情報を提供した人はもう全部死んでいないですから。今だからその辺まで言えるということです。戦争というのは、そういうところが一番怖いところだと。口に出せない、話せない怖さがあると。話せないぐらい怖いものだって知ってもらいたいんです」