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沖縄本島では組織的な戦闘が終わって2ヶ月近く過ぎたこの頃、八重山諸島ではまだ戦闘に備えている学徒隊がいました。

八重山では1945年3月に県立八重山農学校、八重山中学校、八重山高等女学校の生徒達が学徒動員され、独立混成第45旅団と行動を共にしていました。

空襲が激しくなった6月には住民だけでなく、軍も山岳地の白水へ移動。さらに7月上旬には於茂登岳の奥深くへ移動します。そして、65年前のきょう8月12日、動員された生徒達に自宅に帰って待機するよう命令が下されます。

当時16才だった榎本さんは体験記にこう記しています。

「かくて8月12日、ついに私達の鉄血勤皇隊は当分の間、自家に帰って待機するよう命令が下った。喜び勇んで父母の元に帰ったものの、しかし、その『待機』とも敗戦の言葉を聞く待機となったとは、当時知るよしもなかった。」
当時・県立八重山中学3年16歳 榎本博武さん~石垣市市史編集室「市民の戦時・戦後体験記第一集」より~