戦後の復興期から市民生活を支え続けてきた那覇市にある「ガーブ川商店街」が還暦という節目の年をまもなく迎えます。「水上店舗」の呼び名で親しまれる『まちぐゎー』にはいろんな面影が残されていてここにしかない「まーにんねーらん」魅力に溢れていました。
いつもと違う角度から那覇の街並みを見下ろすと、アーケードの屋根が右に左にクネクネと曲がりくねっていることに気が付きます。
濱元晋一郎記者「毎日多くの人が行きかう商店街、この場所は水上店舗と呼ばれていて私の足元にはほかにはない特徴があるんです」
沖縄の歩みを聞くならこの人だと、誰もが認める歴史研究家の古塚達朗(ふるづか・たつお)さんとともに普段何気なく通る商店街が積み重ねてきたヒストリーをひも解きます。
洋服や食べ物など様々な商品を売る店が建ち並び、県民だけでなく多くの観光客も行きかう「ガーブ川商店街」は海や川が見えないのに『水上店舗』と呼ばれています。
なぜ川や水上といった言葉が使われているのか、なぜ店が蛇行しているように建ち並んでいるのか、謎を解くヒントはアーケードの入口にありました。
戦後の市民生活がままならなかった時代に那覇の開南と呼ばれる地域一帯に『闇市』ができ始めます。県内各地から肉や野菜、アメリカ軍の払下げ品などが集まる場所となっていったのです。
法律で認められていない闇市をなくすため、露店の受け皿として1948年に公設市場ができました。そこには入れなかった商人たちが近くを流れる「ガーブ川」に廃材などを使って「バラック」を建てたことで一つの商店街が形作られていきました。川の名前をとって「ガーブ川商店街」と名付けられたのです。
台風や大雨で川はたびたび氾濫するという問題を抱えていて環境的にも衛生的にも商売に適した場所ではありませんでした。
川の氾濫で多くの店が水浸しになっていたと、ガーブ川中央商店街組合の前の組合長で当時を知る大城盛仁(おおしろ・せいじん)さんは振り返ります。
大城前組合長「(知人は)泳いで希望ヶ丘まで逃げたらしいです」「店じまいして、水位が上がって来たもんだから」
ガーブ川の氾濫は杭を打ち込んで足場を作るなどした水上店舗が原因になっているとされ、那覇市が店を撤去する計画を打ち出します。付近で店を出していた人は1960年に組合を結成し、店ではなく川の構造に問題があるからだと訴えました。生活を守るための譲れない闘いです。
大城前組合長「(水上店舗を)撤去しなさいと言われたので、これは死活問題だと」「それからみんな立ち上がって(市に陳情した)」「(組合で調べると)雨を海まで運ぶまでの能力はなかったと気象庁から証言されるわけです」
組合員は466人にものぼりました。やり取りを重ねた末、市は撤去計画を変更してアメリカ国民政府と琉球政府の3者で1962年から河川の改修工事を行います。
神原小学校の裏から沖映通りまでおよそ1キロに渡ってU字型のコンクリートを入れました。排水用の水路を確保しながら川の形に沿って蓋をして、その上に新たな店舗を建てることになったのです。
1963年に水上店舗が完成して16日で60年、周りの景色などは大きく変わっていきました。目を凝らすと至るところに「マチグヮー」の記憶が残されています。
組合では建物を市の有形文化財にできるよう様々なイベントを行い、周知活動を進めています。中心になっているのは現在組合長を務めている由利充翠(ゆり・みつあき)さんです。
由利組合長「文化財にしていきたいっていう話をすると、ずっとここで見てきた人たちはちょっと笑うんですね。そんな価値はないぞここにというお話をされるんですけども、僕らからしたら十分価値があるし十分面白い建物なんだぞと感じているので、この辺を多くの人に知ってもらいたいなと思ってますね」
先週水上店舗の歴史を振り返る写真展がはじまりました。訪れた親子が60年の歩みに思いをはせていました。
参加した親子「ぼくらは良く中学校の時にビリヤードをしに来ていた」「氾濫があった話とか、ここが今はどっちだよという話をすることで娘といろいろな話ができて良かった」「(建物の下に)川が流れていることについてすごく驚いた」「(写真を見て)すごい進歩したと思った、歴史も流れていくと現代になるので、すごく学びになった」
今週末には古塚さんの説明を聞きながら水上店舗付近をまわる「街歩きイベント」が企画されています。
古塚さん「60年間店舗があって営業し続けてきてこうやって人々の営みが続いていることがひとつ大きな価値」
戦後の復興を見守ってきたガーブ川の水上店舗はこれからも少しずつ形を変えながら生活を支え、県内外の人を迎え続けていきます。