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65年前のこの頃、親や兄弟と離ればなれになった孤児たちがピークに達していました。

傷の手当を受ける子、カメラを寂しそうに見つめる子どもたち。

65年前のこの頃、沖縄戦で親を亡くした乳児から20歳未満の子どもたちが孤児院に集められました。

神谷洋子さん「摩文仁の方でお母さんが亡くなってから、向こうから大型のトラックに乗せられ、孤児は孤児に分けられて」

当時8歳だった神谷洋子さん。アメリカ軍のトラックでコザ孤児院にやってきました。

神谷さん「栄養失調して、母をなくして、飲むのも食べるのも何もないでないままここに来たものだから。これから熱は出るし、ここに何が月いたかもわりませんけど」

屋号・タードゥシー久場と呼ばれたコザの孤児院。ここでの生活は、寂しく苦しかったと神谷さんは言います。

65年経った今も沖縄市住吉にそのままの形で残されています。

家を提供した久場さんは、現在この家で生活をしながら子どもたちの巣立った家を残したいと話します。

久場さん「皆さんが記憶のある家だから、壊しちゃいかんということで、ずっと守り続けて、修理して」

自分の名前もわからず、親族に会えない子も多く、戦後も苦難の日々が待っていました。