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アメリカ軍が首里の司令部に迫る65年前のきょう、那覇市繁多川の防空壕を追い出され、なくなく南部へ移動する住民がいました。
アメリカ軍が上陸する前から、那覇市繁多川にある石田の壕に避難していた松茂良美智子さん。65年前のきょう、ここを出ていくことになりました。
松茂良美智子さん「ここには、5月5日,6日までいたんです」
首里決戦に備え銃砲兵隊がここの壕を使うことになり、代わりの壕を東風平に用意されました。
ところが人数の関係で区長さんたちの身内が優先され、松茂良さんの家族は行き場を失ってしまったのです。あてもなく糸満へ向かった松茂良さんは、衝撃なものを目にします。
松茂良さん「人が死んでいるとか、馬が死んでいるとか。周囲のお家がつぶれ、異臭がする」「光がばーっとしたときに、ガラガラと破片が落ちるから、すぐ耳を押さえて伏せてね」
あれから65年。一度も足を運んだことのない第二与座壕。松茂良さんは地域の人たちに訪ね、あの日の記憶を呼び覚ましながら、壕のあった場所を探し当てました。
松茂良さん「繁多川から、明るいうちだったから7時前後だったと思うんですけど、こっちについたのが9時半ぐらいでした」「こっちに池があって、ここから壕の中にはいっていったから、多分この後だと思います」
ようやく身を寄せる場所を見つけた松茂良さん一家ですが、すんなり入れてもらえたわけではありませんでした。戦争の混乱の中でもお金に貪欲な人がいたのです。