政府が南西シフトとして進める自衛隊配備や、有事の問題などを考える「沖縄と自衛隊」です。今回は太平洋戦争でアメリカ軍などに撃沈された民間の船「戦時遭難船舶」を通して、有事の住民避難について考えてみます。
戦時遭難船舶の遺族は、台湾有事を念頭に先島地域からの住民避難が語られている状況に危機感を募らせています。
大城敬人さん「どんなに船でですね、避難しようといったって、ミサイルの攻撃に遭えば、避難なりの話じゃなくて、ほとんど海で犠牲になってしまう」
こう語るのは、名護市に住む大城敬人さん(82)。太平洋戦争下の1943年12月、アメリカ軍に撃沈された定期船「湖南丸」に乗っていたおじを亡くしています。
那覇から鹿児島に向かっていた「湖南丸」。遺族会が戦後に発行した資料には、数少ない生存者の証言が残されていました。
「月夜でしたので、顔の表情はわかりませんが、たくさんの人たちが筏にすがって泳いでいました。船はしばらくして船首を上にもたげて沈んでいきました」
1995年に県が設置した検討委員会がまとめた報告書では、県関係で戦時下に撃沈された定期船などは26隻で県民の犠牲者は少なくとも3427人に上っています。
「湖南丸」のような本土と沖縄を結んでいた定期船のほか、「対馬丸」のように疎開する人を乗せた疎開船、日本が戦時中支配していた島々からの引き揚げる人を乗せた引き揚げ船などがアメリカ軍に沈められています。
こうした実態は船舶会社の事故報告書がみつかった1980年代までほとんど明らかになっていませんでした。船の撃沈は戦時下では機密扱いにされ、遺族も公にできなかったといいます。
大城敬人さん「海軍が機密主義で、一切事故については報告されない明らかにされなかった」「風の便りで亡くなったらしいといっても、もうだめだ、弔おう、初七日をしようと葬式を出そうというものなら、憲兵が来て、それを阻止する。止めろと。これは公表されていないもんだと」「名護の市内でもたくさんそういう犠牲になった方がいるんですが、憲兵に止められて、もう泣く泣く葬式すらできない」
湖南丸が航行していた沖縄戦前の沖縄近海の状況を示す資料が、県公文書館に収められています。湖南丸を沈めたアメリカ海軍の潜水艦・グレイバックの記録です。湖南丸が沈んだ鹿児島県・口永良部島沖に、「ATTACK(攻撃)」の文字が刻まれています。
潜水艦は1943年末から44年の初頭にかけて、沖縄本島から奄美大島、種子島、屋久島に至る海域で、商船などを攻撃しており、沖縄戦が始まる前から周辺海域がすでに戦場だったことを物語っています。
「湖南丸」での県民の犠牲者は560人以上。少年飛行兵を志願して試験を受けに行く途中の若者や、軍需工場に動員される人たちなど、ほとんどが戦争に協力するために船に乗り込んだ人たちでした。
大城敬人さん「国の戦争政策・総動員令でそれに基づいて犠牲になっているわけですね」
名護市議を務める大城さんは、市民から相談を受けたことをきっかけに、遺族の補償問題に取り組んできました。戦後78年経った今も、国策の責任を追及し、補償が実現していない遺族への対応を訴えています。
大城敬人さん「国に責任があるんだと。何年たったからもう知らん顔するなんていうことは、許されないんだという思いで、いつも訴えているんですよね」
いま、台湾有事発生などを念頭に、国民保護法に基づく有事の住民避難の議論が進んでいます。
与那国町住民「危機が迫って、万が一こんなことになってしまった場合には、私たちは民間と軍は、一緒には逃げられないということは確かですよね」
地元からも実現性に疑問が上がる中、大城さんは、先島からの住民避難を無謀と断言します。
大城敬人さん「この南西諸島島しょ作戦ということで、島々を利用して戦闘する・展開するっていうんですが、それによって多くの県民が犠牲になるということとが分かりながら、戦争に巻き込むという状況下で、船で避難するなどということは戦争における戦時遭難船舶の実相というのを状況に見るにつけ、ほとんど県民の命を守ることはできないんだと」「ミサイルで攻撃されれば、戦前のあの大戦の時の比ではない。海での犠牲は。そういうことから鑑みれば、避難ということは、無謀だと」
那覇市の公園には、戦時遭難船舶の犠牲者を追悼する海鳴りの像がたたずんでいます。
毎年、6月23日に執り行ってきた慰霊祭。再び海で県民が犠牲になる懸念を抱えながら、大城さんは今年も参列する予定です。
大城敬人さん「台湾有事を作り出さないような国の外交力を利用し、活用して、しっかりと県民が安心して安全に暮らせるような、そういう状況を作ることこそが、政治としても政府に求められているんじゃないかと思うんですよね」「国に対して犠牲になられた方々の補償などを要求してきても、国は責任を持たない。家族の遺骨がかえってくることはない。」「これをさらにまた多くの犠牲者を生むというようなことはね、あってはならないと。そう思うんですよね」
ここからは取材した塚崎記者です。塚崎さん、戦時遭難船舶で少なくとも3427人の県民が犠牲になったということですが、どのような人たちが亡くなったんでしょうか。
塚崎記者「はい。戦時下では県民の移動は厳しく制限され、何らかの形で戦争遂行に関係した人たちだけが、船に乗って移動していました。日本が支配していた太平洋の島々では、戦況の悪化で、老人や子供、女性などを日本に強制送還しています。旧トラック諸島からの引き揚げ船「赤城丸」は1944年2月に撃沈され、県民369人が犠牲になりました。こうした犠牲の背景には、沖縄が移民県として旧南洋諸島に多くの県民を送り出していたこともあります。」
太平洋戦争での戦時遭難船舶と、国民保護での住民避難はどういった共通点があるのでしょうか。
塚崎記者「はい。国の決断で、民間人が海や空で危険にさらされかねないという点では共通点があるといえます。沖縄戦が始まる前の時点で、沖縄周辺はすでに戦場といえる海域で、「湖南丸」の撃沈はそれを示した事例ともいえます。先島などで想定されている国民保護に伴う住民の避難も、実際に動くのは自治体や民間業者ですが、決定は国が行います。有事が差し迫って、安全性が見通せない海や空を使って民間人を避難させることが本当に現実的といえるのか、真剣に考える必要があるといえます。」
ある意味で差し迫った状況もある中で、私たちは戦時遭難船舶の事例から何を学ぶべきなのでしょうか。
塚崎記者「はい。戦後78年が経っているとはいっても、国が戦争を推し進めるために国民を危険海域であっても移動させていた判断が、本当に正しかったのかを改めて問わなければならないと思います。大城さんたちが求めてきた遺族補償は、単にお金を求めることだけでなく国の誤った政策の責任を認めさせるという意味もあります。国民保護法で危険を伴う住民避難が再び行われかねない状況がある今こそ、同じような犠牲者を生まないためにも、過去の政策の妥当性や国の責任を問うことが、不可欠です。」
ここまでは塚崎記者でした。