アメリカ軍の本島上陸が迫る中、戦場に駆り出された14歳の学徒が見た戦争の本質に迫ります。
アメリカ軍の上陸直前の3月27日、首里高校の前身、県立第一中学校では砲弾が飛び交う中、卒業式が行われました。敵に見つからないようにと、夜、ローソクの明かりを灯して読み上げられた卒業証書。この席で県知事の島田叡はこう訓示していました。
『敵前で挙行される卒業式はわが国の歴史に前例のない日本一の卒業式。栄誉に思い、国のために頑張ってほしい』
彼らを待っていたのは、輝かしい未来ではなく、暗く恐ろしい戦場でした。
宮平盛彦さん「合同指揮所みたいなのがあって、そこから各軍隊に指令が出る。それを受け取りに行く」
大学生たちに、戦争体験を語るのは宮平盛彦さん。65年前の3月28日、わずか14歳で沖縄戦に動員されました。
アメリカ軍が上陸する前年、陸軍は兵力不足を補うため、14歳や15歳でも志願すれば兵隊として召集できるよう規則を改定しました。しかし「志願」というのは表向きで、実際には「強制」のようなもの。宮平さんが通っていた県立第一中学校では3年生以上は「鉄血勤皇隊」に、2年生は「通信隊」に入隊させられました。
宮平盛彦さん「軍隊に入ったら二等兵の襟章をつけて、軍隊に兵隊の一員として扱われたんです。あの頃は半分嬉しいような、誇らしいような」
しかし、そんな少年たちの思いは、すぐに消えました。
宮平さん「ものそごい悲惨な状況だった。歩いているのを砲弾が来て、吹き飛ばされるのを見たのはあのときだけ」
宮平さんには生涯忘れられないことがあります。
宮平さん「タンクから右100メートルくらい右。その下に壕がある」
沖縄戦が終わったことを知らず、南風原のガマに隠れていた10月。終戦を知らせようとやって来た日本兵を、一緒にいた別の日本兵がスパイだと勘違いして射殺してしまう場面を目撃したのです。
宮平さん「日本が負けると思っていなかったので、敵のスパイだから、そこにいることがわかってしまった以上、返すわけにはいかないと」
宮平さんはこの事実を戦後50年目に初めて証言し、それが新聞に掲載されました。その記事を見た読者から思いがけない反応が。亡くなった日本兵は自分の兄ではないかという男性から手紙が届いたのです。
『兄の最後の状況が明らかになり、その死が不明のままに比べ、本人の名誉を回復することになったことで、故人の魂も、遺族の心も救われるという思いでもありました。あなたの勇気ある決断は遺族の一人として、ありがたいことだと思っています』
亡くなった日本兵は突然姿を消したため、仲間から逃亡したのではないかと疑われていました。手紙には、人助けの途中で命を落としたのだと知った遺族たちの複雑な心境が綴られていました。
宮平さん「(ふるさとに)帰っていたら、豊かな家庭を築いていたかもしれない。お参りしないと気持ちが治まらない」
戦争が終わり、ふるさとに帰った宮平さんでしたが、両親も兄弟もみんな戦死し、一人ぼっちになっていました。14歳の少年が体験した沖縄戦。それは今も心に暗い影を落としています。
宮平さん「戦争は形あるものは全部壊す。人も全部、僕の家族も全部いなくなった。まだまだ、辛い思いをずっと抱えているのだということをわかってもらいたいという気がします。本当に辛いですよ、この話しだけはね・・・」
徴兵できる男子の年齢はもともと20歳以上でしたが、戦況が厳しくなると15歳や14歳にまで引き下げられました。しかし沖縄戦では法律に関係なく、13歳とか、12歳の子どもも戦場に送られたと言われています。
勝つためには手段を選ばないのが戦争。だからこそ、戦争の本質を語り継ぎ、二度と繰り返さないようにすることが大切なのです。