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続いては追跡エモリです。今日のテーマはコチラ「首里劇場、その後」。去年7月に「首里劇場調査団」という調査チームが立ち上がり、様々な角度から調査を進めている中、新たな事実が判明してきました。榎森さんの取材です。

榎森「追跡エモリ!調べてみたら!本日のテーマはコチラ!「首里劇場のその後」です。首里劇場は、沖縄に現存する最古の芝居小屋兼映画館で、1950年に開館して以来、72年にわたって営業を続けてきました。

追跡エモリ「沖縄最古の芝居小屋・映画館 首里劇場」

しかし去年4月に館長の金城政則さんが急逝。後継者の不在と建物の老朽化で最下の目処は全くたっていない中、取り壊すのはもったいない。歴史・文化的価値の高い存在を改めて、多くの方に知ってもらおうと、「調査事業」がスタートしたんです。

今日は、現時点でわかってきている調査結果に関して教えていただきたいと思っています。それでは行ってみましょう。」

案内して頂けるのは、首里劇場調査団、副代表の平良さんと建築士の普久原さんです。

平良さん「このままだと取り壊されてしまうか、朽ちていくまま。歴史的にも文化的にも大変貴重なので、せめて調査して記録として残そうということで色々な専門家にお願いして、今、調査をずっと続けている所」

榎森「おお、すごいやっぱ歴史を感じますね。写真もすごい名俳優さんたちなのか、僕は勉強不足でわからないんですが、色あせた感じで歴史を感じるこれもオードリーヘプバーンというネイティブな感じで。当時のカタカナ読みだとこうなるのかなと・・面白いですね」

そして中へ足を進めていくと。

追跡エモリ「沖縄最古の芝居小屋・映画館 首里劇場」

平良さん「ここが場内です」榎森「立派ですね。すごいステージも」平良さん「広いです!大きいです!」榎森「客数の収容人数はどれぐらい?」平良さん「だいたい100人200人ですが金城館長いわく頑張れば1000人は入るって言っていました。

榎森「相当パンパンにしないと厳しいですね」平良さん「立ち見じゃないと厳しい」

終戦から、わずか5年後 1950年に建てられた首里劇場。「沖縄芝居」を始め「時代劇の公演」。そして邦画、洋画問わずたくさんの映画上映が行われ、ピーク時は、1000人を超える人が入ったといいます。

舞台裏にも案内してもらいました。

平良さん「この上を見てもらいたい。これね、首里劇場の周辺にあったお店の看板」「広告看板ですね。お客さんがたくさん来るということは広告の打ちがいがあると、ということで、今、再利用で裏側になっていますがこれは劇場の前に飾られていたという証言も頂いています」

榎森「瑞泉さんは今でもありますよね」

追跡エモリ「沖縄最古の芝居小屋・映画館 首里劇場」

平良さん「瑞泉さんの住所を見ていただきたいんですが首里市崎山区と書いています」首里はもとは那覇市ではなく首里市という1つの自治体でした。なので首里市崎山区と書いてあるということは、ここは合併が1954年なので54年より前に書かれた看板というのがわかります」

劇団の楽屋兼宿泊所として使われていた「舞台裏」。当時使われていたスピーカーや、美術セットはそのままです。

平良さん「ちょっとしゃがんでいただいていいですか。あそこに布地がありますが、これは引幕です。お芝居が始まる時にこの幕を引いて始まる。なんか汚れていると思ったんですよ。古いで。でもよくよく見ると元からのカーキ色。多分、米軍のテント。払い下げ。」

榎森「それを利用している。面白い!」

平良さん「ここが映写室です。ぜひ入っていただいて。奥に行ってみてください」「実はフィルムがかかっています」榎森「本当だ!ここですね!透かしたら」

平良さん「何か書いていますよね?」榎森「椰子の実の詩」平良さん「早春の渥美半島って書いています。榎森「これは内容を見れますね」

追跡エモリ「沖縄最古の芝居小屋・映画館 首里劇場」

普久原さん「木造映画館なのに無理やり床は土間・コンクリートにして、天井も漆喰。という形でスチール。ここだけ防火区画されている。戦後、最初は普通に映画をやっていたが、途中から消防から言われて防火対策を行ったのではないかなと思っていて」「もともとのフィルムって火災の危険が多かった。勝手に火が付いてしまう。だから映写室だけはしっかり区画されている」

榎森「DIY精神あふれる建物じゃんないですか。だから調査しがいがありますね」普久原さん「そうですね。どんどん改修改修して、層状に歴史が積み重なっていくというかそういう場所がたくさんありますね」

県文化振興会の支援をもとに去年7月から調査事業をスタートした首里劇場調査団。その調査で、特に進展著しいのが、「建築」に関すること。大工が木を組む場所を示すための「通し番号」を発見することができ、どこが最初に建てられ、その後、増築されたのかを推察できるようになったといいます。そんな中、増築されたコンクリートブロックを調査していると新たな事実がわかったそうです。

普久原さん「僕らはあれと思って気づいたのは本来は縦190ミリ。横が390ミリという寸法で決まっているがこれを測ってみると400ミリある。縦も200ミリある。10ミリぐらい大きく作られていて」

当時、日本では、JIS規格と呼ばれる「国家規格」が導入されていて、コンクリートブロックは横が390ミリ、縦が190ミリと決められていました。しかし首里劇場のコンクリートブロックは、横が400ミリ。縦が200ミリ。10ミリ大きく作られていました。

追跡エモリ「沖縄最古の芝居小屋・映画館 首里劇場」

普久原さん「戦後、米軍がコンクリートブロックをもちこだ時のブロック製造機の規格サイズなんです要はヤード・ポンド法によるブロックのサイズになっている」

当時、日本で使われていた「尺貫法」を用いて建てられた「木造部分」。そしてアメリカを中心に使用されていた「ヤード・ポンド法」で増築された「コンクリート部分」。

「首里劇場」は戦前からの尺貫法(しゃっかんほう)と、島を占領した米軍が持ち込んだ「ヤード・ポンド法」がチャンプルーされた戦後沖縄の混迷期を体現した建物だったのです。

平良さん「できることであれば残して前のようにお客さんを集めてイベントとか、みんなが集まる場所として再生できたら良いなと思う」

榎森「僕もここでライブやりたいですね。QAB協賛でやりたいですね。是非とも」玉井「バイアスロンをここで。榎森「お笑いバイアスロンをここで。良いかもしれないですね」

戦後の大衆文化を体感できる首里劇場。ここを活用した新たなエンターテインメントが生まれることを期待したいものです。

今は建物の老朽化が激しいので、お客さんをたくさん呼んだりしてのイベントは行えない。首里調査団としては、取り壊さず、補修と補強を行って後世につなげていきたい。調査事業は来月末で一旦終了するが、来年度以降も調査できるように調整中。2月10日に改めて調査報告会が行われる。

追跡エモリ「沖縄最古の芝居小屋・映画館 首里劇場」