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復帰50年特別番組 土の記憶~沖縄球児と甲子園~

QABではこのあと夜7時から、特別番組をお送りします。テーマは、“復帰と高校野球”です。ここからは番組を制作した沼尻キャスターです。

沖縄が本土に復帰し50年の節目の年にお送りする今回の番組では、こちらにスポットを当てました。「甲子園の土」です。

歴代の沖縄球児たちが持ち帰ってきた貴重な土を今回お借りしました。大きさや入れる容器も異なっていますが、今回の番組では、この土を通して沖縄球児の甲子園での活躍、そしてあの興奮や感動を振り返ります。

それぞれの土を持ち帰ってきた当時の選手たちに話を聞きますと、この土には忘れられない様々な記憶がしみ込んでいました。

復帰50年特別番組 土の記憶~沖縄球児と甲子園~

復帰50年特別番組 土の記憶 沖縄球児と甲子園。

長い沖縄高校野球史の中でも節目ともいえる、夏の甲子園2年連続準優勝の沖縄水産、甲子園春夏連覇を成し遂げた興南、そして復帰の年、1972年に甲子園に春夏連続で出場した名護高校の選手たちを中心に、持ち帰ってきた甲子園の土に染み込んだ記憶について聞きました。

前川盛彦さん「僕らメンバーとしては1勝すればいいかと思って戦っていたんですけど、それからあれよあれよですよね。試合に勝ち進んでいって決勝までいった最後には優勝したいというのがあった覚えがありますけど。」

沖縄県勢で初めて夏の甲子園の決勝の舞台に立ち準優勝を果たした沖縄水産。この世代は、1972年、復帰の年に生まれた復帰っ子でした。その沖縄水産を率いたのは、沖縄高校野球の力を全国へと知らしめた栽弘義監督。1990年とさらに翌年の2年連続で沖水を夏の甲子園準優勝へと導いた名将です。

そんな栽監督の実家にも初めて準優勝を果たした時の甲子園の土がありましたが…

復帰50年特別番組 土の記憶~沖縄球児と甲子園~

栽監督の長女 蔵当志織さん「なぜこれがあるのかがわからなくて、前川キャプテンとかに聞いたんですけど選手から分けたわけでもないような、そんな記憶はないなと言っていたので気付いたら家にあったというメダルとかと一緒に並んでいたので」

その沖縄水産があと一歩届かなった夏の頂点を、春夏連覇という偉業で叶えたのが興南でした。

島袋洋奨さん「とても濃い夏だったと思います。そこを目標にして迎えた夏で実際にそれを達成できたんですけども、そう簡単にいかなかった夏でもあったので

県民の悲願でもあった夏の優勝への道のりは、決して平たんなものではなかったといいます。

島袋洋奨さん「開き直るしかないというか初めて2イニングで5失点 大会でして」

復帰50年特別番組 土の記憶~沖縄球児と甲子園~

そして今から50年前の1972年復帰の年に春夏連続で甲子園に出場したのが名護高校でした。時代の大きな転換期を戦った選手たちは揃って、ある言葉を口にしていました。

大城衛さん「“運命”のめぐり合わせ、大きな沖縄県の節目の中で翻弄されたというんですかね」

沖縄が本土に復帰し、初めて「沖縄県立高校」として名護ナインが試合後に拾い集めた甲子園の土には喜びだけではない、今も消えないある記憶がありました。そんな沖縄球児と甲子園の土の物語は復帰前、沖縄県勢として初めて甲子園に出場した首里高校から始まりました

金城睦俊さん「周囲は大きな塀で囲まれているしスタンドは大きいし、比べ物にならないというのか」

山口辰次さん「見るもの聞くものみんな初めてですからね、ここでやるのかみたい」

緊張と高揚感の中で、初めて夢の舞台に立った首里ナインが沖縄に持ち帰ろうとした甲子園の土。しかしその土は、今選手たちの手元にはありません。その代わりに、今も首里高校の校内に記念碑として飾られているのが、甲子園の小石です。番組では、この小石と関わりを持つある女性に話を聞くことができました。

復帰50年特別番組 土の記憶~沖縄球児と甲子園~

多治川玲子さん「びっくりしましたね あれだけみんなかき集めて持って帰ったのを、それぐらいの土入れてあげたらいいのにと思いましたよね」

たとえ土は消えてしまっても、そこには今なお続く温かいつながりがありました。土すら持ち帰ることができなかった時代から、甲子園春夏連覇、そして現在にいたるまで沖縄球児の躍進を甲子園の土を通して見つめる特別番組は、このあとよる7時から放送です。

同じ甲子園の土であっても、そこには夢の舞台で戦った沖縄球児たちの様々な記憶が詰まっていました。番組には1958年の首里から2010年興南の春夏連覇、そして現在に至るまで甲子園での試合映像もふんだんに盛り込んでおります。あの興奮・感動が蘇ってくると思いますので、ぜひご覧いただければと思います。