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きょう告示された、沖縄県知事選挙。本土復帰50年を迎えたこれまでに8人の知事が誕生しています。きょうの「復帰50の物語」では、それぞれの知事を振り返ります。

玉城知事「これからもぶれることなく辺野古に新基地を造らせないそのことを全身全霊で取り組んでまいります」

前回の選挙に当選し、8人目の沖縄県知事としてこの4年間の県政を担っていた玉城デニーさん。

佐喜眞淳候補「基地の問題を終わらせて未来へとつなぐ跡地の構想をやろうではありませんか」

8年ぶりに保守による県政奪還をねらう、前の宜野湾市長・佐喜眞淳(さきま・あつし)さん。

下地幹郎候補「私はこの辺野古の問題を解決するこれによって沖縄を変えるこれを下地ミキオの争点にさせていただきました」

4年前の構図に割って入り、知事の座をめざす元衆院議員の下地幹郎(しもじ・みきお)さん。

この顔ぶれに次の4年間の沖縄のかじ取りを託すことになります。ことし本土に復帰して50年。その間に、様々な困難に向き合い立ち向かってきた歴代の知事にスポットを当てます。

屋良朝苗さん復帰10周年でのインタビューより「”核も基地もない平和の島として回復していきたい”という合言葉になっておった、念願になっていましたけどね」

復帰50の物語 第33話「困難に向きあった 歴代知事」

沖縄県の初代知事、屋良朝苗(やら・ちょうびょう)。屋良さんはアメリカの施政権下にあった沖縄が本土復帰を果たした激動の時代に知事を務めました。

核抜き本土並み、基地のない平和な島を願った復帰でしたが沖縄に基地は残り続け、アメリカ兵の犯罪も多発。

屋良朝苗知事(当時)の肉声「基地のある間は、沖縄の復帰は完了したとは言えない。『基地のない平和な島の回復』といった合言葉に照らしてみたときに、沖縄の復帰問題は、完全に解決したとは、言えないわけであります」

復帰50の物語 第33話「困難に向きあった 歴代知事」

2人目の知事・平良幸市(たいら・こういち)。西原町出身で、教育界に従事したのち、西原村長、県議会議長を務めるなど政治の道を歩みました。就任後は、地方自治の確立を訴え、反戦・平和の信念を貫いた平良さん。軍用地の整理縮小や跡地利用のために「軍用地転用特措法要綱」をまとめるなど戦後処理に奔走。

しかし、公務出張中に病に倒れ、わずか2年5ヵ月の在任期間を終えました。

復帰50の物語 第33話「困難に向きあった 歴代知事」

革新から保守へと県政の流れを変えた、3人目の知事・西銘順治(にしめ・じゅんじ)

西銘順治「21世紀に向けて平和で個性と活力に満ちた県づくりのために我が県の振興発展、県民福祉に取り組んできました」

西銘さんが掲げていたのは県立芸術大学の設立、そして「世界のウチナーンチュ大会」の構想など沖縄の振興を着実に進め基地に依存する経済の脱却をはかりました。

その一方でアメリカ軍による様々な事件・事故が相次ぎました。国との太いパイプを強調しながらも改善しない基地問題「沖縄の心は何か?」と問われた西銘さんは「ヤマトンチュになりたくてなり切れない心」と表現しました。

”オール沖縄”の原点は西銘さんにあったという識者の声もあります。

復帰50の物語 第33話「困難に向きあった 歴代知事」

4人目の知事・大田昌秀(おおた・まさひで)。鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員された経験から何よりも「平和な沖縄」を求めました。しかし大田さんも、アメリカ兵による事件や事故に苦しみます。そして1995年には、県民の怒りが頂点に達します。

アメリカ兵による少女暴行事件。およそ8万5000人が抗議の声をあげました。事件直後、軍用地の使用を地主に代わって知事が認める「代理署名」を拒否したことから、国に訴えられ敗訴。

日米両政府に立ち向かう一方で、沖縄戦で亡くなったすべての人を刻銘する「平和の礎」を建立し反戦・反基地を訴えました。

復帰50の物語 第33話「困難に向きあった 歴代知事」

5人目の知事・稲嶺惠一(いなみね・けいいち)。経済界のリーダーとして活躍した実績を持ち低迷していた県経済の立て直しを期待されていました。

モノレール発車時の音「(汽笛が)ファーン、わぁ、いい音だぁ」2003年、構想からおよそ30年をかけて完成した、「ゆいレール」が開通。

辺野古への移設を容認した時の会見「普天間飛行場の移設候補地をキャンプシュワブ水域内、名護市辺野古沿岸域に決定しました」稲嶺さんは知事就任後の翌年、普天間基地の辺野古移設を容認。こうした中…

「2004年8月13日 沖国大に米軍ヘリが墜落」

事故当時、海外に出張していた稲嶺さんは予定をキャンセルして沖縄に戻った後、当時の小泉総理大臣に抗議するため上京したものの、「夏休み」を理由に会うことができず、面談できたのは事故から12日後のことでした。

稲嶺さんもまた、基地問題を避けて通ることはできず、県益と国益の板挟みになりながら重大な決断を迫られた知事の1人でもありました。

復帰50の物語 第33話「困難に向きあった 歴代知事」

6人目の知事・仲井眞弘多(なかいま・ひろかず)。「沖縄21世紀ビジョン」を策定し、那覇空港第2滑走路の整備や鉄軌道構想を盛り込むなど、今の沖縄につながる重要な施策の礎を築きました。

仲井眞さんもまた、基地問題に振り回されます。オスプレイの強行配備、2013年3月には国が辺野古の埋め立てを申請を提出、12月に安倍総理と会談し、決断します。

2013年12月27日仲井眞知事「基準に適合していると判断をし、承認することと致しました」

辺野古のキャンプシュワブ沿岸部の埋め立てを承認。野党は辞職を求め、市民らは強く抗議。公約に掲げた経済振興で手腕を見せた一方で、最後は、拍手と怒号が飛び交う中、県庁をあとにしました。

復帰50の物語 第33話「困難に向きあった 歴代知事」

7人目の県知事・翁長雄志(おなが・たけし)命を懸けて国と対峙し、県民の声や思いを全国に発信し続けました。

西普天間住宅地区や北部訓練場の一部が返還された一方で辺野古の新基地建設をめぐって、県と国の法廷闘争を繰り返しながら工事が次々と進められていきます。また、アメリカ軍の事件・事故も相次ぐ中、衝撃が大きかったのは…

「うるま市女性殺害事件」

海兵隊員だった男が当時20歳の女性を殺害し遺体を遺棄した事件。

翁長知事・県民大会「心の底からあなたを守ってあげることができなくてごめんなさいという言葉が出てきました」「政治家として知事として痛恨の極みであり、大変申し訳なく思っております」

在任中にがんを患い、志し半ばで亡くなった翁長さん。”イデオロギーよりアイデンティティ”という信念のもと平和への思いを貫き通しました。

2018年・慰霊の日「未来を担う子や孫が、心穏やかに笑顔で暮らせる平和で誇りある豊かな沖縄を築くため全力で取り組んでいく決意をここに宣言をいたします」

本土復帰後も変わらないアメリカ軍の基地負担と「平和」を発信し続け県民生活の向上をめざして、困難と向き合ってきたこれまでの知事。本土復帰から50年が経ったことし、新たな沖縄の将来を託す選択が始まっています。

復帰50の物語 第33話「困難に向きあった 歴代知事」