慰霊の日を前に、名護市の小学校で平和学習会が行われ、子どもたちが、地域の沖縄戦について学びました。
北部の沖縄戦に詳しい川満彰さん「この場所は名護市内です」
子どもたちが、驚いた様子で見入っているのは、77年前の名護十字路付近の写真です。
川満さん「ここが名護十字路。ここに戦車が。みんなの場所も戦争があったんだよ」
きのう、名護市の羽地小学校で地域の沖縄戦について知ってもらおうと学習会が開かれ、6年生56人が参加しました。北部の沖縄戦に詳しい川満彰さんが講師を務め、沖縄戦当時、学校周辺がどのような状況だったのかを説明しました。
羽地小学校は1945年4月初旬、進攻してきたアメリカ軍によって、校舎は軍政府の事務所に。運動場は「モータープール」とよばれる軍用車両の修理工場兼駐車場として使われました。
近隣の集落は民間人収容地区として、戦場で保護された住民や中南部からの避難民が多く収容されました。その規模は本島最大とされています。講師の川満さんが、子どもたちに、どうしても見せたい場所がありました。
川満さん「当たり前にあるこれ、みんな触ってみよう。みんなは何気なくこの校門を見て、ここで遊んだり乗ったりしているんだけど、この校門は戦前から子どもたちを相手しているんだよ。戦争を体験していたっていうことで、とても大切にしてほしいなと思って、みんなに触ってもらった」
学習会では、学校の敷地内に残された戦前の小学校の正門を見学したあと、日本軍が陣地を構え砲撃の的となった山や、住民が身を潜めていた山なども確認。
川満さん「あそこには日本軍がたくさんいたんだよ。海から砲弾がきます、艦砲射撃。空から飛行機がどんどん向こうを攻撃します。ここにいた住民はあれ見てどう思ったかね?怖かったんじゃない?恐怖だよね。77歳以上のおじいちゃん、おばあちゃんは、それを体験しているんだよ」
沖縄戦が終結した後も、住民が食糧確保に苦労しながら避難生活を送っていたことなどを学びました。
川満さん「沖縄戦で得た教訓は命ど宝、基地があるところから戦争はやってくる、軍隊は住民を守らない、この3つです。その3つは戦争が起こったら教訓になりません。教訓はいつ生かすのかって言ったら、今だよ、今。どうやって、ウクライナのように戦争にならないようにするのか、今、考えることですよ」
児童「羽地に収容所があるって聞いてびっくりしました。羽地にもあったんだなと」「ウクライナは距離は沖縄から遠いけど、沖縄もこういうことがあって、ニュースでも、いっぱいなくなっている人の映像とかも出てきて、身近に感じてました。次の世代のひとたちにもどんどん、こういうことがあったよって教えていきたいなと思いました」
川満さん「見慣れた風景、普段の暮らしの中にあった風景ですので、ここで戦争があったということを私は考えてほしくて、実感してほしくて。北部の戦争を自分の歴史として知ってほしいと思っています」