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シリーズでお送りしています復帰50の物語。きょうはその復帰を境に放送の形を大きく変えたラジオ局の歴史についてお伝えします。昔の音源がほぼ残っていない中証言や資料をたどり特別番組の制作に挑むスタッフとその思いを取材しました。

テープ音声(復帰後70年代のラジオCM)「あなたの街にやってきたテキサスフライドチキン11号店うまさをギュッと閉じ込めて。神里原にデリシャスオープン」

FM沖縄ディレクター室賀啓希さん「デリシャスチキン初めて聞いた」

浦添市にあるFM沖縄です。電波の届くエリアは小さい一方で音質の高い周波数変調(Frequency Modulation)を使った放送を行っています。

FM沖縄 アナウンサー大城勝太さん「私たちは音楽専門局ということを売りにしてエンターテインメントを中心に情報発信をFM沖縄はずっとやってきた。その素地というのは実は極東放送時代からあったんだなということを感じることがある。」

1984年に開局しましたが、それ以前は音質は高くない代わりに電波が遠くまで届くAM放送を行うラジオ局でした。略称はKHR(Kyokuto Hoso Radio)。

入社して20年余りの中堅どころとなった室賀さんと大城さんは復帰50年の節目にFM沖縄・極東放送と歴史を振り返りながら自社が経験した本土復帰を伝える特別番組の制作を進めています。

極東放送、KHRが開設されたのは復帰の年1972年。すでに琉球放送、ラジオ沖縄と民放AMラジオ局が2つあった中リスナー獲得のため民謡舞台や高校野球の中継なども行いました。

また平日夕方にはスポンサー企業から提供された小型飛行機で空から渋滞など交通情報を伝える番組もありました。

復帰50の物語 第17話 「復帰が変えたラジオ局」

ラジオ局として存続をかける一方で日々の膨大な量の放送を記録として残すことは難しくテープも高価だったことから過去の音声はほとんど残されていません。そんな中・・

テープ音声「幸せへの道。主題は神の招きと悪魔の招きテキストは旧約聖書の箴言の9章4節から6節までを新改訳聖書でお願いします」

FM沖縄 ディレクター室賀啓希さん「その当時は宗教放送でコマーシャルを流さない放送局だったということが分かったので多分(さらに古いテープは)残っていないと思う」

復帰の年、1972年に開設された極東放送(KHR)。実は10年以上さかのぼる1958年に放送はスタートしていました。同じ極東放送という名前ですが略称はFEBC。(Far East Broadcasting Company)アメリカのキリスト教系法人が運営していた伝道放送局でスポンサーは無く法人の資金信者からの寄付金で放送を賄っていたといいます。

FM沖縄 アナウンサー 大城勝太さん「実は私と室賀さんは極東放送を知る世代と仕事をした最後の世代になっていてうっすらと先輩たちから直接当時のことを聞くことができたその最後の世代でもある」

2人が向かった先は、FEBC時代の極東放送を知る大先輩の自宅です。

復帰50の物語 第17話 「復帰が変えたラジオ局」

東伸三(あずま しんぞう)さん。ラジオが好きで1959年に技術エンジニアとして入局。以来副社長まで務めた極東放送の生き字引です。

極東放送時代を知る東伸三さん「当時は機械が無いので音声調整卓(ミキサー)も全部手作り。戦車の(部品を)外したものなどを拾い集めてつくる」

FM沖縄 ディレクター室賀啓希さん「受信機がないと(放送が)聞けないなかなか高価だった?」

東伸三さん「沖縄も特に戦争を経ているから(貧しくて)ラジオがあるのは本当に珍しいくらい。PM(ポータブルミッショナリー)といって(極東放送のみ聞ける)固定チャンネルのトランジスターラジオ。これを配った」

極東放送(FEBC)はアジアに20余りあったキリスト教伝道放送のネットワークで沖縄はそのうちの一局でした。さらに復帰の1972年以前は日本語、英語に加え、中国語での放送も行い国頭村にあった送信所から中国大陸へ電波を送っていたといいます。

復帰50の物語 第17話 「復帰が変えたラジオ局」

FM沖縄 アナウンサー大城勝太さん「中国語放送の目的というのは?」

東伸三さん「要するに(東西冷戦で)鉄のカーテン。ソビエトと言われた時代。それから中国はバンブー(竹)カーテンと言われていた。そこにはもちろん宣教師は入れない。カーテンをこじ開けるには何が良いか。電波はどこでも飛んで行ける」

FM沖縄 アナウンサー大城勝太さん「中国のどのあたりまで(電波が)届くくらい?」

東伸三さん「ノルウェー、スカンジナビア半島から(受信者から)リポートが来るから結構(中国を)通り越して(届いた)」

FM沖縄 ディレクター室賀啓希さん「キリスト教の布教のための放送局ではあるし対中国のもの(情報宣伝)ではあるからというアメリカの戦略とも合致する」

資本主義と共産主義国家の冷戦が続いていた1970年代まで極東放送はアメリカ軍の情報戦略の一翼を担っていたとも言えます。その軍との近い関係が日本復帰の際問題となりました。さらに・・

東伸三さん「復帰になると当然日本の電波法が適応されるから宗教法人の外国人の免許は日本の電波法ではだめ。放送局を持てない。」

廃局の危機もありましたが1972年に財団法人極東放送としてクッションを置いた上放送を始め、78年に株式会社化。さらに84年には他のラジオ局との差別化を図るためFM局に移行しました。廃局を免れた背景には・・

東伸三さん「特に音楽はクラシック番組が豊富に流せた。というのは(宗教法人時代は)コマーシャルがないから時間が豊富にある。だから交響曲を丸ごと流せると。ユニークな番組を流していたということもあって、我々としては残したいとあちこち交渉した」

東さん始めさまざまな取材を通して現FM沖縄の2人は復帰特別番組の制作に向けて情報をまとめていきます。

復帰50の物語 第17話 「復帰が変えたラジオ局」

FM沖縄 ディレクター室賀啓希さん「一つひとつの話がダイナミック。これはぼくらが知っておかないといけないことだし。その先輩がいて僕らがあるということ」

FM沖縄 アナウンサー大城勝太さん「私たちは次の世代にバトンをつないでいくために必要な作業をしているのかなと思った」

室賀さん、大城さんがまとめる番組はFM沖縄で復帰の日5月15日に放送される予定です。

FM沖縄の番組では、極東放送が復帰の際に存続できた理由を深堀りして、当時の状況を詳しく伝えるということです。

また宗教法人時代はコマーシャルがなくて音楽がフルにたくさん流せたということがFM放送局になった原点でもあったということです。ラジオ放送の背景から知る復帰というのも興味深いですね。