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1945年1月14日、沖縄県は八重山支庁にマラリア防止策の係を設置しました。
八重山におけるマラリア有病地帯の調査は戦前から行われていて、石垣島や西表島の山岳地帯はマラリアの巣窟だとの調査結果が出ていました。
年明け早々、アメリカ軍による八重山諸島への空襲が激しさを増し、その後、八重山旅団の宮崎旅団長が住民の避難を命令。山岳地帯へ避難を余儀なくされた結果、住民3600人余りのマラリア犠牲へとつながっていったのです。
戦争が激しくなった際の住民避難については、旧日本軍が県民指導措置八重山細部計画を作り、住民を山岳地帯に避難させる計画を極秘に立てていました。
この計画に基づく旅団長の命令で住民避難は行われ、八重山支庁のマラリア防止策はなすすべもありませんでした。有病地帯に追い払われた末、戦争マラリアの悲劇が生まれたのです。