沖縄が本土復帰してから来年で50年です。祖国復帰を間近に、知ることとなる返還協定の内容を受け当時の琉球政府は、日本に対して「基地のない平和の島」を切望し、復帰に際して様々な要求を綴った「建議書」を作成しました。
しかし1971年のきょう、国会で「返還協定」を強行採決され、国は建議書を「ないがしろ」にする形を取りました。
建議書の作成に携わった人物や屋良主席を支えた人物への取材を通し、届かなかった沖縄の声と「今でも建議書は生きている」という思いについてお伝えします。
怒号が飛び交い、大混乱の国会。50年前のきょう、アメリカ軍基地の固定化を前提とした「沖縄返還協定」が強行採決されました。
それは、琉球政府の屋良朝苗主席が、「沖縄県民の声」を国会に届けるため、羽田空港に降り立つ直前の出来事でした。
屋良主席が手にしていたのは、沖縄が望む復帰の形をしたためた「建議書」です。
建議書より抜粋『県民が復帰を願った心情には、結局は国の平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたからに外なりません。沖縄問題の重大な段階において、将来の歴史に悔いを残さないため、また歴史の証言者として、沖縄県民の要求や考え方等をここに集約し、県民を代表し、あえて建議するものであります』
基地の撤去を願った132ページにおよぶ復帰への民意は、政府・与党の強行採決により、断ち切られたのです。
屋良朝苗日誌より抜粋『党利党略の為には沖縄県民の気持ちと云うのは全くへいり<弊履>の様に踏みにじられるようなものだ』
ないがしろにされた建議書。その原案作成に携わったひとり、平良亀之助さんは、琉球政府の復帰対策室の調査官として、県内の要望や意見をまとめ、日本政府に報告する業務などを担っていました。
沖縄返還に関わる作業は、日本政府と琉球政府との間で進めることとしていましたが、実際には、日本側のペースに押し切られ、現場は困惑していました。
元琉球政府職員・平良亀之助さん「日本政府から何の詳細もない、なんの指示もない。つまり、我々はただ作業させられただけで、もう彼らの方針は決まっているが、琉球政府を通さないとというようなことだったのか」
沖縄の本土復帰を7か月後に控えた1971年10月。日本政府は、臨時国会で、返還協定の承認と復帰に伴う土地法案など、関連する7つの法案を決めます。
沖縄にとって重要な法案にも関わらず、情報は入ってきていませんでした。そんなある日、平良さんは運命の瞬間に立ち会うことになります。
元琉球政府職員・平良亀之助さん「庶務係にしか電話ないからね、電話かけるよと言ったら、バーッと親鳥がひなを外敵から守るような感じでね。ちらっと見える、かなり大きめの冊子がいくつか重なっていて、これを覆っている。で私は、カマかけたわけさ」
実は、平良さんは、元新聞記者。長年の勘で「何かある」と違和感に気づきました。
元琉球政府職員平良亀之助さん「もうそれしかないから、こうするのは。もう『ものはきてるんだな』と言ったらね、この係が上目遣いにして『さすが元新聞記者』と言ってね」
隠された冊子は、日本政府側が つくりあげた沖縄返還協定と復帰措置関連法案だったのです。
元琉球政府職員・平良亀之助さん「パラパラと見ただけで、これはいかんと。この通り(復帰)されたらね、ちょっと復帰後の我々は立ち行かないですよというふうなことを口頭でとりあえず進言した」
そして、この復帰措置法案の問題点を徹底的に洗い出すため、琉球政府は「復帰措置総点検プロジェクトチーム」を立ち上げます。
元琉球政府職員・平良亀之助さん「家にも帰らない、もうとにかく徹夜でもう間に合わないんだから」
屋良主席の日誌には、プロジェクトチームから届いた草案を、「建議書」としてまとめていく様子がつづられています。
屋良朝苗日誌より抜粋『十時から建議書の読み合わせ始る。暴風となり豪雨となる。結論も午後までかかる。具体的要求には入ったが、今日中には終われず、十一時頃休む』
11月16日、「復帰措置に関する建議書」が完成しました。翌17日、建議書を携え上京した屋良主席を思いもよらぬ事態が待ち受っていました。
屋良朝苗日誌より抜粋『羽田にも記者一ぱい。東急玄関でマイクをつきつけられ返還協定が強行採決されたことを知らされる。あ然とする』
石川元平さん「破れた草履のような扱いを沖縄が受けたということに対する、多分、言い知れぬ失望感と怒り、悲しみ、そういうことをあの日誌の中で書いてありますね」
屋良主席を支えていた石川元平さん。その晩年まで、親交をあたためてきました。屋良主席は、実現できなかった沖縄がのぞむ復帰を、後輩に託したといいます。
石川元平さん「自己決定権のできる、平和な島の実現。沖縄にそういう自己決定権を、という、屋良は一言でまとめればそれを主張したんだ。佐藤総理や愛知外務大臣に。これが基地問題であり、また核問題であり、いわゆる自治の問題、復帰後の」
この思いは、建議書の冒頭に綴られています。
建議書より抜粋『従来の沖縄は余りにも国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用されすぎてきました。復帰という歴史の一大転換期にあたって、このような地位からも沖縄は脱却していかねばなりません』
琉球政府・屋良朝苗主席「形式的には核抜き・本土並み。この共同声明を見ましてもね、実際はっきりしないところがある」
50年前のきょう、沖縄返還協定の強行採決により、門前払いにされた屋良主席ですが、翌日、佐藤総理をはじめ、全閣僚に建議書を手渡していました。
元琉球政府職員・平良亀之助さん「私は(建議書は)有効である、生きていると」
基地のない平和な沖縄を願い、屋良主席が日本政府につきつけた県民の声。その重みは、来年、復帰50年をむかえる沖縄に、改めて深く響いています。