普天間基地の返還と県内移設を決めた1996年の日米特別行動委員会、SACOの合意からきょうで丸13年を迎えます。しかし、普天間基地の危険性は今も放置されたままで、その普天間の名護市辺野古への移設は、アメリカ軍再編の中でいつの間にか本島中南部の基地の返還の条件とされ、アメリカ側の交渉のカードとして使われています。本来は、周辺住民の危険性を無くすための普天間の移設が、アメリカとの交渉の中で歪められていった経緯について岸本記者の報告です。
ゲーツ国防長官「アメリカ政府の方針ははっきりしている」「普天間基地の辺野古への移設が実現しなければ、 グアムへの海兵隊の移転も無い」鳩山新政権の誕生後、日本を訪問し、こう釘を刺したゲーツ国防長官。
橋本総理 (96年4月)「普天間基地は・・5年ないし7年以内に返還されます」今から13年前、普天間基地の返還を電撃的に発表した橋本総理。これは、その前年、アメリカ兵3人が起こした少女暴行事件とその後の「反基地」の県民世論の高まりをきっかけに発表されました
そして、その年の12月に開かれた日米特別合同委員会。県内11のアメリカ軍施設の返還が合意されましたが、その中身は普天間基地を含めてほとんどの施設は県内移設を条件としたものでした。
1999年12月27日 岸本名護市長が基地受け入れを表明。岸本名護市長「普天間飛行場の代替施設の受け入れについてこれを容認することを表明いたします。」そして99年、名護市の岸本市長が、普天間の替わりの施設の受け入れを正式に表明。日本政府は、基地を受け入れた見返りに10年間で1000億円という北部振興策を投入し、辺野古の沖合2キロの海上で基地建設を進めようとしますが、抗議行動で計画は頓挫。
こう着状態が続く中、2004年に宜野湾市の大学に普天間基地所属のヘリが墜落。日本政府は、すでに検討を進めていたアメリカ軍再編の中に普天間の移設問題を取りこみ、今度は、辺野古沿岸部への基地建設を本島中南部の基地の返還の条件としたのです。
自公政権が、辺野古への基地建設計画を着々と進める中ことし9月に起きた政権交代。民主党は「県外・国外の道を模索中ですが、この問題についてまだ明確な方針を示せていません。
仲井真知事「県民は県外移設への声が高まっていると申し上げた」「鳩山総理は日米ワーキングチームの交渉の結果を見て判断したいと言っていた」
一方で、辺野古での基地建設にこだわり続けるアメリカ。ルース駐日大使「辺野古移設計画が、最も優れた唯一実現可能なプランだ。」仲井真知事「日米ワーキングチームの結論はいつごろ出るのか?」ルース駐日大使「出来るだけ早くだ。」
本来は、周辺住民の危険性の除去が最大の目的だった普天間基地の返還がアメリカ軍の再編に組み込まれたために、辺野古に移設しなければ、別の地域の負担軽減が進まない今の計画。新政権は、この複雑なパズルを前提に議論するのではなく、まず原点に返って、危険な普天間基地の返還を最優先にすべきです。