ウルトラマンの生みの親、南風原町出身の脚本家、金城哲夫さん。そんな哲夫さんの実の弟、金城和夫さんを取材して見えてきたのは、沖縄を世界にむけて発信しようとしていた一人のウチナーンチュの姿でした。
金城和夫さん「兄貴が一所懸命忙しく仕事してた場所なんでね。ここで5年間、亡くなるまで、その仕事場として使っておりました」
ウルトラマンファンの間で聖地となっている場所、それが南風原町にある「金城哲夫資料館」です。先月26日、ウルトラマンの生みの親と言われる南風原町出身の脚本家、金城哲夫さんがこの世を去ってから、45年の月日が流れました。
金城哲夫さんは、1938年、東京で生まれ、生後すぐに沖縄へ戻り、南風原町で育ちました。
金城和夫さん「我々小さいころですね、今の与儀公園、道路に沿って、あそこにけっこう住宅がたくさんありましてね。兄が子供たちを集めて、話をしてという、いろんな話をしていたというエピソードを僕は年配の先輩の方から聞かされて、当時からそうゆう話をするのが好きだし、みんなを引っぱっていこうとするリーダーシップそうゆうのもあったんだなと思って」
中学を卒業した哲夫さんは、東京の高校。大学へと進学し、そこで多くの出会いを経てウルトラマンを作ることになる円谷プロへ入社します。そして、25歳の若さで企画文芸室長となり、ウルトラマンやウルトラセブンなどヒット作を生み出していったのです。円谷プロでは、同じ県出身の仲間である脚本家上原正三さんとの間にこんなエピソードがありました。
金城和夫さん「円谷に上原正三さんと二人でね、いるときに、ヤマトンチュに負けてならんどって、2人で話し合ったとかね、方言でね。そばにいる人は何いってるか分からないとおもうんですけど、ウチナーンチュとしての誇りは、本人は持っていただろうし」
東京にいながらウチナーンチュの誇りを胸に働いた哲夫さん。そして、それはウルトラマンの中にも、感じることが出来ます。
佐藤文彦さん「(第33話の)禁じられた言葉でいうと、ヤマトンチュとウチナーンチュの、ウチナーンチュでありながら、ヤマトで仕事をしている金城さんにとって、そうゆうのが反映されたんじゃないかということで」
こう話すのは、哲夫さんの死後、その活躍を研究する「金城哲夫研究会」代表の佐藤文彦さんです。
佐藤文彦さん「地球人のなのか宇宙人なのかと問われるんですよ。それで、ウルトラマンは両方だって言うんですよね。それは金城さんの気持ちがもしかしたら入っているかもしれないなっていうのは、ありますけどね」
そして、ウルトラマンに出てくる怪獣にも沖縄の要素が入っていると言います。
佐藤文彦さん「毎回違う怪獣が出てくるんじゃないですか。番組で言うとゲストみたいなものですから。毎回ゲストを招いてね、戦うというような感じなので。怪獣がいてこそのウルトラマンだという感じもしますね。これチブルー星人ですね」
また、誰もが知るあの怪獣も、実は沖縄の要素がありました。
金城和夫さん「うちのおやじがよく酔っぱらって「マイネームイズキングジョージ」と言ってたから、それを文字ってると思うんですよ」
なんと、あの「キングジョー」の名前の由来は、哲夫さんの父がよく口にしていた言葉から生まれたのでした。
そうした中、哲夫さんは1969年、31歳で円谷プロを辞めて沖縄へ帰ってくることを決意します。
金城和夫さん「まず沖縄に戻ってきた理由は、私はよくわかりませんけども。いろんな思いを持って帰ってきたと思うけれども、沖縄に帰って、好きなことをやろうと思ったんじゃないかと思うんですが」
沖縄に帰ってきた理由を和夫さんに直接話すことは無かったと言いますが、兄、哲夫さんの沖縄での仕事ぶりからあることが見えてきました。
金城和夫さん「沖縄の第一号の直木賞をとる人になりたいとと願っていたと思います。大城立裕先生が沖縄に住んで芥川賞をとられて、それに刺激を受けて先生と色々帰ってきてから話をして、じゃぁ直木賞私がとりますよという話を大城先生になさって、してたというかな」
沖縄で子供向けの番組を作るという約束もあったのだと言います。
佐藤文彦さん「亡くなった上原正三さんと約束で、(沖縄で)何か子供のための番組を作りたいねというのは、約束があったというのは、伝え聞いてはいるんですけどもね」
また、1975年には、沖縄国際海洋博覧会のセレモニーにで企画演出を担当しています。
佐藤文彦さん「海洋博のことに色々と携わってですね、開会式と閉会式の演出をやられたんですけど、沖縄から日本、世界へというふうにですね、そういうふうに広げていこうというようなお仕事ももされていたので、一貫して言うと沖縄を愛したといいますかね」
金城和夫さん「非常に誇りに、自分の島のことをね、思っていたろうし、それをどうやって発信して、(なにが)必要なのかっていうことも、考えていただろうと思うんですけどね。沖縄から強烈に発信しようと思っていたと思いますけどね。元気だったらすごいいい仕事をたくさんしただろうになと思いますけどね」
不慮の事故により志半ば、37歳の若さでこの世を去った金城哲夫さん。
彼の残した物語は今も、人の心を動かし続け、生き続けています。