※ 著作権や肖像権などの都合により、全体または一部を配信できない場合があります。

戦後75年の今年、「非戦の誓い」と題し、シリーズでお伝えしています。1回目のきょうは、島民およそ170人が「集団自決」に追い込まれた座間味島。なぜこの悲劇が起きたのか、生き残った人たちの貴重な証言を聞きました。

海岸沿いに並ぶ墓。この日はたくさんの人がお参りに訪れていました。毎年、旧暦の3月に行われるシーミー。島の人たちにとって、もう一つ大切な意味があります。

1945年3月26日、島にアメリカ軍が上陸した日。沖縄戦を象徴する凄惨な出来事が起きました。小さな島で逃げ場を失い、追い詰められた住民たちは、自分たちの手で命を絶ったのです。刃物で切り付ける少年。互いの首に縄を巻き付けしめあう女性たち。集団自決を起こし、およそ170人もの人たちが命を落としました。

宮村文子さん「ここはみんな自決した。住民が死んだのは自分で自決した」

そんな集団自決を目の当たりにした女性がいます。宮村文子さんは当時20歳でした。この日は顔は出さないという約束で取材に応じてくれました。

それは、文子さんが家族とはぐれ、一人で逃げていた時のことです。やっとの思いで逃げこんだ壕の中で、文子さんはおじの最期を目撃してしまったのです。

戦後75年企画 非戦の誓い(1) 座間味島「集団自決」の記憶

文子さん「そこに人がいっぱい寝ている。ポコポコって顔触る、足さわるって、中にはいっていくと、ここで生き残っていたのが私のおじさんだった。ここに寝てる人は何ですか?って聞いたら3所帯から4所帯よ、親分が首をしめて家族はみんな殺したのにじぶん達は死ねなくて、座っているんだよ、この馬鹿たちが。明日4月1日だから今晩で逃げておかないと。死ぬなよ、一緒に逃げようというのに、自分の首を(紐で)まいて、防空壕の上は大きな丸太があって、そこにはじを結んで、隣に座っているおじーのももをちぎったわけ。やるなやるなって。自分は泣きながら引っ張ったけど、ぱっとおじさんが上にあがって、もうすでに死んでいるわけよ」

当時15歳だった田中美江さんも集団自決で生き残った一人です。田中さんは教師たちが互いに命を奪い合う凄惨な現場を見ていました。

戦後75年企画 非戦の誓い(1) 座間味島「集団自決」の記憶

田中美江さん「ガマでは自決の話でいっぱいです。学校の壕では校長先生が手りゅう弾を投げ、内間先生と学校の職員は即死。校長先生と奥さんは生き残り、校長先生がカミソリで奥さんの首を切り、自分もひとおもいに切り、即死だったそうです。山の裾野の壕では、二家族が首をしめ、子どもたちがほんとにかわいそうだった」

実は美江さん自身もその時、みんなと一緒に自決しようと試みていました。しかし、たまたま手りゅう弾が爆発しなかったため、生き延びたのだといいます。なぜ島の人たちが、こんな残酷な最期を選択したのか。

島の人たちは、いよいよというとき、自分の手で命を断つのが正しいことだと教えられ、自決用の手りゅう弾を渡されていたのだといいます

文子さん「アメリカに捕まるよりは自分たちで死んだほうがいいというのが昔からの教育で、その通りにやっていたんだと思う。何十名って」

戦後75年企画 非戦の誓い(1) 座間味島「集団自決」の記憶

戦後75年目の命日。新型コロナの影響で慰霊祭は中止となりましたが、海沿いに並ぶ墓には多くの人が訪れていました。そして、戦没者を悼む「平和の塔」にも祈りをささげる人々が…。

島民「おふくろの弟が集団自決で首切ったものだから。母も首きられて、かろうじで生きていたんだけど。父親が全部家族を切って」

島の人たちに刻まれた戦争の深い傷。しかし、その記憶も薄れつつある中、子や孫の世代にどう伝えていくかが今課題になっています。

座間味村役場職員・高江洲英毅さん「今、座間味にいる祖母も戦争体験者でたまに話してくれるんですけど、聞くたびに、今住んでいるところでこういうことがあったんだなということを忘れてはいけないといつも思っている」

座間味村・宮里哲村長「しっかりと過去の戦争というのは語り継いでいかないといけない。平和の尊さを伝えていくのは座間味村の義務だとも思っている」

集団自決から生き延びた人たちにとって、どんなに時がたっても、目の前で親や兄弟、親戚、学校の先生たちが自ら命をたった瞬間は忘れられない記憶です。あの地獄を生き延びた女性は、また戦争が起きたとしても二度と同じ選択をしないと話します。

文子さん「こんなやって生き残ったけど、戦争ってなんで住民を殺すために始めたのか、考えると馬鹿みたい。次に戦争があった場合、白い旗あげて私は桟橋で待つ、降参」