Qプラスリポートです。シーサーと言えば、沖縄では厄除けとして玄関に置かれていますが一口にシーサーと言っても、深い歴史があるんです。シーサーの魅力を伝えるご夫婦を取材しました。
古代エジプトのライオン像がルーツともいわれるシーサー琉球の歴史書に初めて登場したのは1689年に設置された八重瀬町富盛の石彫大獅子(せきちょうおおじし)です。
石のシーサーは村落獅子ともいわれる地域の守り神ユニークな表情のものも多く本島南部を中心に県内で130体ほど確認されています。この石のシーサーに魅せられた夫婦が首里汀良町(しゅりてらちょう)で営む工房があります。スタジオde-jin(デージン)の若山大地(わかやま だいち)さん愛知県出身で母方のふるさと沖縄の県立芸大で彫刻を学びました。色を塗って楽しい見た目にしたものもあり沖縄の石を使った作品にこだわっています。
若山大地さん「琉球石灰岩というサンゴの働きでできている石。ヨーロッパが石で有名だが大理石文化(沖縄と)同じ石灰岩文化で柔らかい石がたくさん豊富にあるのでそこは沖縄と通底するところ」
石灰岩は柔らかく割れやすいため細かい造形には向きません一方でツチやノミといった簡単な道具で簡単に彫れることが琉球王国時代の庶民にも石彫りが広まった大きな理由です。
若山大地さん「シーサー文化は根づいているから身近に感じられていいのではないかと石のシーサーを作っている」
妻の恵里さんは石のシーサーのリサーチを担当しています。最初は全く興味がなかったそうですが夫の大地さんに誘われドライブがてら家族でシーサーを見に行くうちに公民館や地域の人たちに話を聞き資料づくりをするようになりました。
若山恵里さん「(調べ始めたのは)10年前くらいの話それまでは全然私も知らなかった。昔は水とか火を大事にされていたので火を大切にする鍛冶屋のそばに守り神としてシーサーが置かれていたというのが多くある。(彫った人たちは)ライオンとか実物を見たことがないので多分どんどん想像その作者の想像で作られていったからこういう面白い形ができていったと思う」
この日は若山さん夫婦の案内で那覇市上間を訪れました。
若山恵里さん「名前は「カンクウカンクウ」由来は分からなくて集落の人でも知っている人がいない」
地元の言い伝えでは15世紀ごろの三山時代中山勢だった上間はたびたび南山勢と戦ったためその厄除け、悪風返し(ふーちげーし)で南をにらんでいるとされています。
若山大地さん「作り手の潔ぎよい。顔しか作っていない。技術とかそういうものではなく思いとか思いやりとか全てか集約されているような造形に感じて好きになった」
すぐ近くにも珍しい石獅子たちがいます
若山恵里さん「意味はミィートゥンダシーサーと呼ばれていて夫婦の石獅子と呼ばれているが多分こっちが男性、夫こっちが奥さんだと思われる。糸数城と玉城の(南山の)城の(悪風)返しと言われている」
こちらも誰がつくったのかや年代など分からないことが多いのですが地域の歴史的背景は垣間見えます。
若山大地さん「逆に南風原にはこっち(上間)に向いている石(獅子)がある」
ちなみにその南風原の獅子はこちら鬼気迫る表情を今に残しています。そしてもう1箇所案内してもらったのが西原町の呉屋運玉森(うんたまむい)を仰ぎ見る地域です琉球王国時代の風水では運玉森(うんたまむい)を火山(ひーざん)火事はじめ災いをもたらす火の性質を持つ場所と見ていました。
若山恵里さん「沖縄に三大火山のようなものがあって八重瀬岳と運玉森とガーナー森があってその中の1つ」
その火山(ひーざん)に向けられたのがこちらの石のシーサー。胴体と同じくらいの大きさの顔にインパクトがあります。
若山恵里さん「穏やかに見守っているという感じ」
現代に残された村落獅子石のシーサーに託された地域の思いを感じながら若山さん夫婦は沖縄の石獅子文化を伝えていきたいと考えています。
若山恵里さん「石獅子のストーリーや逸話は本当にご高齢の80歳代以上の方しか分からないことが多くてしかもそれでご健康で話せる人が居るかというと少ない。推測できることはたくさんあると思うのでそれを残していきたいなと思っている」
若山大地さん「(制作依頼が)県外とか最近台湾が増えてきたが、沖縄にこういうもの(石獅子)があることを紹介したいという気持ちがあるので世界中に行きたいというのが今一番の夢」
私たちの身近な場所で先人の思いをつなぐ石のシーサーたちが今もなお地域を見守り続けています。