辺野古埋め立て承認撤回から、きょうで1週間。翁長知事がどんな意志で、埋め立て承認撤回を覚悟したのか。その思いを、そばで知事を見守ってきた妻の樹子さんに聞きました。
8月8日に亡くなった翁長沖縄県知事。その姿を、そばで見守ってきた妻の樹子さんが最後の姿を語りました。
樹子さん「140万県民のお父さんのつもりだった。彼はまるでお父さんですね。お父さんであり続けたいと思った。彼の気持ちは全うできたと思っている。命がけなのは間違いないので、命がけだったのは間違いないし、何よりも変な話だけどね、自分自身のそういう欲はなかった人だったんです」
こう話すのは、翁長知事の妻、樹子さん。昨夜QABのインタビューに答えました。
樹子さん「ひとつには、表面上なれていないように見えるかもしれないけど、翁長は最期の言葉に「みんなわかってる」だったの。みんなそれぞれの立場であったり、目の前の生活など、色んなものを抱えていて、いろんなことを言うかもしれないけど基地を抱えて不条理の中で、生きている沖縄が未来永劫このままでいいなんて思っている人はもう一人もいないというのが翁長の最期の言葉だったんですよ。それを考えたら70数年間以上も沖縄県民もいろんな思いを抱えていろんな状況を乗り越えてきてみんな一生懸命頑張ってきてもうみんながそう思っているんだったらなんとかそれを解決しないといけないでしょう。それを考えたら、私は政治家の役目というか役割はそろそろ正気に戻って果たしてもらいたいと思う」
Q正気に戻って?
樹子さん「そうですよ、正気にですよ。こんな状況が当たり前なんて思ってもらっちゃ困るし、これを国民が許していると思ったら、そろそろそれも違うでしょ」
Q最後のころは、お辛かったのではないかと。
樹子さん「じゃあ辞めて、彼が何とか病をクリアしてして生き延びたら、一緒に老後を楽しんでくれるかと言ったら、そういう状況でもなかったんですよ。そういう状況じゃなかったら、何ができるかですよ。結局は、政治家としての彼を支えて、おすしかなかったの」
こうした中、迎えたのが撤回への意思を示した最後の会見でした。
翁長沖縄県知事「思いがないとこの問題には答えられないんですよ。私たちの沖縄は、何百年も苦労してきたんだから。「また沖縄は振興策をもらって、基地を預かったらいいですよ」なんて言うことが、これからも起きるようだったら、沖縄の政治家としては、私はとても容認できないというような思いです」
しかし気丈な知事も、直前には弱音を吐いていたといいます。
樹子さん「食事しながら初めて、こんな状況で記者会見してみんなの質問に答えられるかなと、不安そうな、不安げなことを言ったものだから、できるに決まっているでしょ。頑張ってきたでしょうといって、押し出したんですけど、帰って切ってどうだったって秘書に聞いたら、30分しゃべりどおしだったって聞いたときは、やっぱりもう、心底、ほっとしてありがとうと思いました」
治療よりも公務を優先し、自身の手で撤回する意志を固めていた翁長知事。そばに寄り添う樹子さんも、同じように強い覚悟を決めていました。
樹子さん「彼がそういう時点でやめて、治療に専念しますと言って、やらなかったけど、もしやったとして、じゃあ本当にできるのか、病をクリアできるのかと思ったときに、かなり厳しい状況ではありました。ステージがどうこうという問題じゃなくて、色々な問題があって、できる状況じゃなかったですよ、だったら先生にお願いしたのは、こんなこと言ったら翁長の母に怒られるかもしれないけど、残りの命はいらないから、撤回という表明するまで、何とかして立てる体にしてと言いました」
家族で過ごす時間よりも、リーダーとして生きる人生を尊重した樹子さん。夫の姿を、こう見ていました。
Q翁長さんはどんなものを背負っていたと思いますか?
樹子さん「本当に信じられないかもしれないけど、沖縄全部を背負おうとしていたの。保守も革新もなく、ウチナーンチュ同士で争うことだけはやめたいという思いがすごく強かったし。僕はいろいろなことを言っている人の後ろの人と喧嘩しているんだと、この人たちと喧嘩しているわけではないと。いろいろな立場それぞれあるから、同じウチナーンチュ同士で、こんな風にやってしまったら、喜んで見ている人がいると思ったら、僕だけはできないと。そういう意味では、彼はまるでお父さんですよね。お父さんであり続けたいと思った、彼の気持ちはまっとうできたと思っているわけ」