Qプラスリポートです。おとといは終戦記念日でしたが73年前の敗戦の後、台湾で特別な任務を負い組織された沖縄出身の人たちがいました。
その組織の名は「琉球官兵」。知られざる歴史の秘話をお伝えします。
知花さん「将校が12時の玉音放送があるからと。なんとも言えなかった。もう戦争負けたんだな」
宮里さん「勝つとしか思っていません」
こう語るのは、台湾で終戦を迎えた沖縄出身の元軍人。終戦後、日本に代わって台湾を統治し始めた中国によって新たに組織された「琉球官兵」だった2人です。
知花成昇さんは25歳の時に台湾に配属されましたが、台湾では激しい戦闘が行われないまま戦争が終結しました。すると…
知花さん「(終戦後)中国から兵隊は早く、日本の軍隊は帰ってくれと」
中国軍は日本軍に早期の引き揚げを迫りましたが、知花さんら沖縄出身兵だけは、帰ることが叶いませんでした。
知花さん「各地にいた兵隊は沖縄に”帰れないから”基隆に集まれと」
戦後、米軍の支配下に置かれた沖縄では受け入れ態勢が整わず、いつ古里に帰れるか先の見えない状況が続いたのです。
日本兵が次々と引き揚げるなか、残されたのは日本籍の一般人(日僑)と、沖縄籍の人たち(琉僑)。こうした人々の引きあげ業務を担うよう、中国から任命されたのが「琉球官兵」でした。
知花さんは、当時およそ800人いた琉球官兵を統率しました。
知花さん「経理班、憲兵班、自動車班などに分けてみんな兵隊を分配して中国の委員会と連絡を取り合った」
宮里朝光さんも知花さんの副官として業務にあたった一人です。
宮里さん「中国兵が荷物を調べて送還した。その時に梱包を開けて戻したりするのを我々がやる。これが主な仕事」
また、歴史的に古くから関わりがある中国側とは良好な関係を築いていたといいます。
宮里さん「ウチナーンチュは琉球官兵として日本兵とは違った扱いをしている」
知花さん「荷物の検査などは日僑が引き上げる時の荷物検査と琉僑が引き上げる時の検査は違うと。(中国軍は)日僑の検査は厳しかったけど琉僑の検査はほとんどやらない」
琉球官兵たちは、引き揚げを待つ人々の食事の世話や街のがれき処理などあらゆる作業をこなし、およそ30万人の一般人を本土や沖縄に送還しましたが、自分たちはいつ帰れるのか不安に苦しみました。
宮里さん「沖縄になかなか帰れないで心配でたまらないで、兵隊の中には自殺する人もいた。首をつって。3、4人いたんじゃないですか」
琉球官兵が最後の引き揚げ船に乗って台湾を出たのは、敗戦からおよそ1年半がたった1946年12月24日のことでした。
宮里さん「日本の残っている役人は大変喜んで(港から)手だけでは見えないから上着を振って見送ってくれました」
知花さん「私たちは、琉球官兵はいいちばいした(よく頑張った)と思っています、今でも、そう思っています」
しかし待っていたのは、厳しい古里の現状でした。
知花さん「うちに帰ったらうちの母が僕に「戦争は私たちがやったのであって、あんたたちがやったか?」っていうわけさ。親父が4月1日に戦死して、(母親は)それを言いたかったんだなと。人間の運命っていうのは自分ではどうにもならない」
宮里さん「沖縄に帰ってみたらみじめだからね。明日からの食事をどうするかが問題ですからね」
引き揚げたあと、宮里さんは教師として、知花さんは琉球政府で勤めるなど沖縄の復興に尽くしました。
宮里さん「(Q琉球官兵だった誇りはありますか?)ありますよ。第一、第9師団が輸送をほったらかして逃げるでしょ。そういったことを考えるととても日本人にはできないことですからね」
知花さん「やるべきことはやったなと思って。だけど兵隊だったということは誰にも言えないけど琉球官兵だったということは言ってもいい」