うるま市石川の宮森小学校にアメリカ軍機が墜落した事故からあさってで59年です。児童17人が亡くなり、210人が重軽傷を負う大惨事。59年経った今だからこそ伝えていこうという動きがあります。
1959年、6月30日。嘉手納基地を飛び立った戦闘機が石川の住宅密集地に墜落し、そのまま宮森小学校に突っ込みました。
玉城欣也さん「先生が席に着いて、ミルクが来ますからと言って。席に着いて待っていたら、どーんと大爆発が起きたわけです。窓ガラスが割れましたよ。ダーンと爆風で。戦争だと言いました」
事故の様子を生々しく語るのは小学2年だった玉城欣也さん。玉城さんは逃げる途中、買ってもらったばかりの虫取り網を学校に置いてきたことを思い出し、現場に戻りました。そこで偶然見た光景は、忘れることができません。
玉城さん「ちょうどそこに歩いて行ったら、火は燃えているし、学校の先生は半狂乱になって、火の中に飛び込んで、生徒を放り投げていますから」
校舎が火に包まれる中、児童11人を含む17人が死亡し、210人がケガをしました。
過去に類を見ない大惨事。しかしあまりの恐怖、悲惨さから、多くの人が事故の事実を心の奥にしまい込み、長く語ろうとはしませんでした。
中にはこんな女性もいます。宮里幸子さんは逃げた後、2年間の記憶がすっぽり失われています。
宮里幸子さん「煙が見えなくなるまで走ったことは覚えています。真っ黒になって。(Q:しばらく経ってからのことで、覚えていることはありますか?)記憶がないんです。私は小学校4年まで記憶がないんです。学校の先生の名前も全然覚えていないし、消えています」
宮森事故を伝えていこうと活動している宮森630会はことしアメリカの国立公文書館に所蔵されていたジェット機事故関連の資料を入手し、検証を始めました。こんな思いからです。
石川・宮森630会 久高政治会長「物証として事件を語る証拠、物証が手に入ったと。これこそが訴える力を持っていると思う。我々は遺族の悲しみなり、苦しみなり、けがをした方々が悩んできたことをつかみとれているかというと、そうじゃないと思うんです」
ジェット機事故は沖縄の本土復帰前、アメリカ軍統治下で起きたため、多くの事実が闇に包まれたままです。事故から59年経った今だからこそ、過去にうずもれた事実を検証し、伝えていこうという動きが始まっています。