アメリカ軍の大規模な空爆で那覇市の9割が焼け野原となった10・10空襲。こうした沖縄戦の映像をアメリカから取り寄せ、平和運動に活用しているNPOがあります。1フィート運動の会。
大城信也事務局次長「この25年間でワシントンの国立公文書館から11万フィート」「30キロメートルの長さのフィルムを購入してここにあります」
一フィートはおよそ30cm。そのフィルムの購入費は1フィートあたり100円で、県民からのカンパなどでこれまで映像を買い集めてきました。そのフィルムには、アメリカ軍が撮影した沖縄戦が克明に記録されています。
今から64年前の4月1日。鉄の暴風とも呼ばれる激しい艦砲射撃の後、読谷村から本島に上陸したアメリカ軍。金武町で行われた掃討作戦ではアメリカ兵が民家の一軒一軒に押し入りお年寄りや子供までも強制的に排除しました。
家を追い出されたこの男性は若い兵士の腰より頭を上にあげないよう何度も命じられます。こちらは当時、屋嘉にあった最大の捕虜収容所です。配給されたわずかな水を奪い合う日本兵達。
一フィートの会が入手した映像には、この他にも、地上戦の阿鼻叫喚の地獄絵がはっきりと映し出されています。
「いたじゃないか春子!清子!会いに来たんだよ」
1フィート運動の会の立ち上げに携わり、事務局長として21年に渡り会の中心的な役割を果たした中村文子さん。19歳の頃から小学校の教師として、多くの生徒を送り出した中村さんには今でも忘れられない生徒がいます。中村さんと同じ教師の道を目指していた濱元春子さんと石川清子さん。
ピアノが得意だった春子さんはひまわりのような明るい少女。習字の練習を欠かしたことがなかった清子さんは物静かで白百合のような美人で下級生の憧れの的でした。
中村文子さん「愛国心を刷り込まれて、清子、春子を教えた頃は徹底した軍国教師だった」
ひめゆり学徒隊として動員された2人は頭と足に大けがを負い、暗い壕の中で命を落としました。
中村文子さん「私の首筋に幻の矢が飛んでくるの。お前たちに教え込まれた娘や息子は帰ってこないじゃないかと唸り声をあげるの」そんな錯覚に今も苛まれるの」
現在95歳の中村さんは2年前に会の事務局長を退いて顧問となり、今は週に3日、デイケアに通う日々を送っています。
一フィート運動の会の理事の平均年齢も70歳を超え、活動をどう継承していくのかが、一番の課題です。
大城信也事務局次長「我々の問題点は後輩を運動の仲間として一緒に作っていくことができなかった」
若い世代にも会の活動へ興味を持ってもらおうと一フィート運動の会はこの数年製作した映画を上映する回数を増やしています。戦争の現実を直視する学生達。映画を製作した謝名元監督は、朝鮮から沖縄へ連行されてきた軍夫や慰安婦について説明し、被害者の視点だけではなく、加害者として日本人が犯したことも忘れないよう語りかけました。
謝名元慶福監督「お訪ねしてお話を伺う時に冒頭に言われることは自分達は戦争中、大変なことを日本人にされたと。だからこの地球上で日本人と一緒に住みたくないんだと面と向かって僕らに言われます」「そういう風に言われたことに対して僕らがどう生きていくのかー」
学生「本当に体験した人の証言というのがすごく重みがあって訴えられるのもがありました。」「サークル活動で修学旅行生向けの平和ガイドを行っているんですけど」「やはり証言者の語る真実に強い信憑性があると思うのでそういうのをもっと自分も勉強して自分がガイドを受け持つ子供達に伝えていきたいと思いました。きょうのを見て」
中村さんと共に会の設立に携わった大田昌秀元知事は、戦争体験者として今も強いメッセージを発しています。
「戦争の問題というのは、ただ過去の歴史を学ぶという問題ではなく、未来に生きる若い人達が、次、日本が危なくなって戦争状態に、憲法違反するようなことが起こって、すでに海外派兵なんかが出ているし国民保護法制とか有事法制なんかが出来てきて他人事ではない。自分達の身に降りかかってきますからね確実に。
中村さんが8年に詠んだ短歌は、今より強く私達に問いかけます。
「それほどに戦がしたい 男らよ子を産んでみよ。死ねと言えるか」
大城さんも毎年、慰霊の日が来るたびに沖縄戦の記憶を語り継ぐ決意を新たにしています。
「沖縄戦の真実をきちんと伝えていく運動を常に現在の若者達がやっていける運動として一フィート運動も継続していければと思います」
一フィート運動の会がアメリカから購入した沖縄戦の映像はアメリカ軍が撮影したものですから、当時の沖縄県民の体験とは若干、違った角度からの映像だとは思いますが、やはり生の映像には圧倒されますし、そこには人が人で無くなる恐ろしさが映し出されていますよね。
そうですね国会では、有事法制が次々と成立していますが、そういう日本の動きを、かつて侵略を受けたアジアの人達がどのようにみているのか、そして、軍隊がいたこの島で、どんな悲劇が起きたのかということを沖縄に住む私達一人ひとりが本土や海外に伝えていくことが必要だと思います。