天皇皇后両陛下のお写真と教育勅語です。戦前、天皇の写真は「御真影」と呼ばれました。戦前の教育では、天皇は神様であり、国民の命よりも大切なものと教えこまれました。この写真「御真影」を沖縄戦で命がけで守った男性は、今何を思うのでしょうか。
屋比久浩さん「御真影は天皇のあるいは皇后の分身だという風に教わっていた」
当時の県立第三中学校、いまの名護高校の3年生だった屋比久浩さん。天皇の写真を命がけで守った一人です。
戦前、天皇は現人神とされ、歴代天皇の写真「御真影」は天皇と同じで、全国の学校で最も神聖なものとして扱われてきました。
1944年10月10日、沖縄全土を襲った10・10空襲。それをきっかけに戦火から御真影を守るために教師たちの部隊「御真影奉護隊」が結成されました。その補助員だった屋比久さんたちは、1箱20キロほどの重さのある御真影を背負い、徹夜しながら山を登り大切に運びました。
屋比久浩さん「地べたに置くことは全くできなくて、そのままずっと背負ったまま。最終目的地まで行って、集まった御真影は8畳ぐらい(の場所に)いっぱいになりました」
名護市源河地区の大湿帯と呼ばれる地域にある御真影奉護壕。この壕におよそ120余りの御真影を秘密裡に保管し、守り続けていました。
補助員だった屋比久さんたちは、神聖な壕の中には入れず、寝ずの番小さな小屋で見守っていました。
壕の周辺にアメリカ軍の姿が現れるようになると、敵の手に渡ることは絶対にあってはならないと、ある決断をしました。
屋比久浩さん「一人で持って逃げられるように、そのエッセンス、お写真の分だけを残し、残りの台紙とか桐の箱とかを全部処分しようと」
昭和天皇以外の御真影は壕の中で燃やされることになり、壁にはこの時ついたとみられるすすが今も残されています。
屋比久浩さん「相当な分量だから、壕の中では焼けないので埋めようと」
さらに、屋比久さんたちは敵に見つかるのを恐れ、残りを近くの神社の境内に埋めました。
屋比久浩さん「埋めたとき『海ゆかば』をうたいながら、涙ぽろぽろ流して埋めました。(Q:自分の命より大切と思ったんですか?)それは思っていますよね。その時は、例えばもし仮に敵に遭遇したら、これを守って自分が撃たれるという感じ、そういう気持ちは持っていました」
最後まで守り続けた昭和天皇の御真影も日本軍の組織的戦闘が終わった6月30日、敵の手に渡らないように壕の近くの小川で燃やされました。
敗戦後、天皇中心だった国家は国民へと主権が移りました。屋比久さんは、その価値観を受け入れるまでかなりの時間を要しました。また、ある疑問も生まれました。
屋比久浩さん「(Q:当時の教育は、何のためだったんですか?)神のために。お上のうちのすべてが悪かったわけではないけれども、ある政権があって、それが天皇を利用して一つの軍国国家を作ってしまった。一番大切なのは、教育だと思います。お上に全部任せておいて、お上が間違ったことをしても、これを止めきれないというのは、民主主義じゃないですよね」
住民の4人に一人がなくった沖縄戦では、住民9万人あまりが犠牲になりました。
天皇の戦争責任について厳しい目を向ける人もいました。しかし、繰り返し沖縄へ慰霊に訪れる両陛下の姿勢に、複雑だった県民感情にも徐々に変化もありました。
歴代天皇として初めて沖縄を訪問された時、南部戦跡で天皇陛下は、遺族に対して語りかけます。
天皇のお言葉「戦争のために亡くなった多くの人々の死を無にすることなく、常に自国と世界の歴史に理解。平和を念願し続けていきたいものと思います」
平和を求める思いを行動で示し続けてこられた天皇陛下。屋比久さんは、退位前の天皇陛下の沖縄訪問には、沖縄へ寄せる思いがあると思っています。
屋比久浩さん「ただ単に最後の激戦地だけじゃなく、戦後、沖縄は切り離さざるを得なかった。そのことについていの心の痛みというのを負ってらっしゃるんじゃないかと思います」