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80年前、読谷村のチビチリガマで起きたいわゆる「集団自決」当時、ガマのなかであった出来事を通して残された遺族が語る平和への強い思いを取材しました。

「真っ暗な中で殺しあっているような叫び声が聞こえ、包丁で刺されたのでしょうか、『お母さんよー、お母さんよー』とどこかの娘さんがわめいていました。どんどん死んでいく様子が真っ暗ななかでもわかるのです」

「敵にやられるより、お母さんの手で殺してください、殺してください」「敵に殺されるくらいなら自分がやろう」

たどる記憶つなぐ平和#12「チビチリガマ 80年前に起こった悲劇」

これは80年前のガマの中で、実際に交わされていた会話です。母親は包丁で自分の娘に手をかけたといいます。

1945年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な勢力で読谷村に上陸。住民は村内の自然洞くつなどに避難していました。このうちのひとつ「チビチリガマ」には、当時およそ140人が避難していたといいます。

「大丈夫デス、安全デス」

アメリカ軍はガマにやってきて「安全だから出てこい」と呼びかけるも、当時、日本軍から「捕まると女性は乱暴され、男は残酷な扱いを受けて殺される」と教え込まれていたため、住民はアメリカ軍の呼び掛けを信用せず、まっくらで足場の悪いガマの中に隠れ続けました。

たどる記憶つなぐ平和#12「チビチリガマ 80年前に起こった悲劇」

そして、アメリカ軍が上陸した翌日の4月2日。

「殺してください」

アメリカ軍に捕まることを恐れた住民は、自ら毒薬を注射したり、毛布に火を付けたり、鎌や包丁などで愛する家族を手にかけたり、それはまるで地獄のような光景だったと言います。

チビチリガマで起こった、いわゆる「集団自決」です。ガマでは83人が犠牲になり、このうちおよそ6割が18歳以下の子どもたちでした。

このガマの中の出来事は、80年経った今でも遺族の心に消えることのない傷を残しています。

たどる記憶つなぐ平和#12「チビチリガマ 80年前に起こった悲劇」

与那覇徳市さん「(集団自決では)自分の家内を殺すわけでしょう、そうしたら隣の人が自分の子どもをお願い殺して、早く殺して、そういったものは口では言えないのよ」「これ言える?みんなタブー、みんな隠し事」

祖父母ら5人がチビチリガマで亡くなった与那覇徳市さんは、地域の学校などでガマで起きた出来事を伝え続けています。

当時2歳だった徳市さんは、沖縄戦が始まると母親のフミさんや姉とともに読谷村から北部へ逃げました。幼い与那覇さんを連れたフミさんは、まわりから心無い言葉をかけられたといいます。

与那覇徳市さん「泣いたらアメリカ軍に見つかったら大変、殺せ、母によ、私を殺せとみんなが言ったわけ」「(一緒に)入水自殺しようと(海に)行ったわけ、行ったとたんカニとかがいるわけ、それを私が姉とおっかけっこしてそれを見て母は目が覚めて引き返した」

たどる記憶つなぐ平和#12「チビチリガマ 80年前に起こった悲劇」

戦後、離れ離れになった家族を探したフミさんは、チビチリガマに避難していた両親や兄弟が「集団自決」に巻き込まれてしまったことを知ります。

与那覇徳市さん「(母は)この辺でただないてるだけ、話しかけもしない、くるしいさ、誰に訴えればいい、助けてほしいのに天涯孤独になった」

どんな時でも笑顔を絶やすことないフミさんは与那覇さんの自慢の母親でした。しかし、6歳のころにチビチリガマで見せた母の泣き顔が今でも忘れられないといいます。

与那覇徳市さん「(母が)私の手を引いて、何でここに行くか意味も分からなかった、(母が)動かないわけ、泣いておかーと言ってもなかなか動かなかったよ、いまだったらわかる、母はあんなに苦しかったんだね」

たどる記憶つなぐ平和#12「チビチリガマ 80年前に起こった悲劇」

フミさんはチビチリガマについてほとんど語ることはありませんでした。与那覇さんも子どもの頃は、祖父母や親戚のいる家庭をうらやましく思ったことがあるといいます。

与那覇徳市さん「オジーってどんな人?オジーオバーがいたら私をかわいがっていたでしょうね」「オジーオバーがいたらや、おじさんおばさんがいたら、もっといい人生を歩みよったかもしれんさーやー、学校も出たくても出られない、そういった時代よ我々の時代は」

与那覇さんは戦争は生き残った人にもずっと悲しみを背負わせるものだと振り返りました。今月5日、チビチリガマで行われた慰霊祭には、ガマの中で手をあわせる与那覇さんの姿がありました。

あれから80年経った現在でも、米軍基地が残り続ける現状や緊迫する世界情勢に、また、あの戦争が起こってしまわないか不安を感じています。

たどる記憶つなぐ平和#12「チビチリガマ 80年前に起こった悲劇」

与那覇徳市さん「あの沖縄戦から80年になる、でも遺族会で慰めに来ているが今の世の中おかしくなっている」「この沖縄から、読谷から、このチビチリガマから平和を願わないといけない」「おじいちゃん・おばあちゃん・お母さん・おじさん・おばさん力を貸してください、(世界を)平和にしないといけない」

与那覇徳市さん「私の生きている間やらないといけないわけ、その役目だと思っている、ここから平和を発信しないと大変よ」「命どぅ宝ど、命どぅ宝ど、というのはそこなのよ、生きていればどうにかできる」

遺族会によると、チビチリガマの「集団自決」から80年が経ち、当時の状況を語ることのできる体験者は、もう残されていないということです。この地獄のような悲劇を二度と繰り返さないためにも、体験者や遺族の思いを忘れずに後世に繋いでいく必要があります。