続いては、シリーズ「たどる記憶・つなぐ平和」です。80年前、アメリカ軍による「沖縄上陸作戦」で起きた渡嘉敷島の「集団自決」。QABは今回、この「集団自決」の生存者にお話を伺いました。
体験した当時は1歳で、ほとんど記憶がないなか、島で起きた歴史を風化させず、戦争の悲惨さと平和への思いを次の世代に繋げるのか?その思いを聞きました。
富里常男さん「これがわたし」「髪型こうってやるのはわたしそのもの」
これは1945年4月5日、アメリカの新聞社が伝えた記事紙面には、兵士が小さな子供を抱いている写真が掲載されています。

富里常男さん「ニューヨークタイムズに載っている一連のこういうのがでてきたから、これじゃちょっと色々勉強してみようといって」
戦後、この掲載記事を見つけたことで地元で起きた戦争について調べ始めた1人の男性。この島で起きた悲惨な歴史を風化させないために、自分事として考えられる平和継承をうったえます。
那覇からおよそ30キロ離れた場所にある渡嘉敷島「ケラマブルー」と称される美しい海を求めて多くの人が訪れます。
この美しい島で、80年前に起きた悲劇について語る男性がいます。富里常男(80)さんです。富里さんは1943年、南洋諸島にあるトラック島で生まれます。戦況の悪化で両親の故郷である渡嘉敷島へ母と2人の姉と移り住むことになりました。

しかし、富里さんらが住む渡嘉敷島にも暗い影が押し寄せます。1945年3月26日、アメリカ軍は沖縄での上陸作戦を開始。軍は慶良間諸島を次々と占領し27日には渡嘉敷島に上陸を開始すると日本軍は住民に、島の北側に集まるよう命令をかけます。
富里常男さん「ここが集団自決現場跡地」「ここらへんの近くにいたようです。我々はですね」「向こう側にも人がいて、ずっと下の方にも皆さん住民はそろって座っていたようです」
富里常夫さん「こっちに来た時点で既に白装束で、こっちに来た住民も沢山いた」「来いという、そのものが死ねということと同じように聞こえているということですよ」

28日午後2時ごろ、住民らは軍から渡された手りゅう弾を炸裂させ、ある人は鎌や木の棒などで親や子供を手にかけました。この場所でおよそ330人が命を奪われ、そのなかに富里さんの母と叔母、そして生まれたばかりのいとこも含まれていました。
富里常男さん「うちの母は目の下のほほ、穴が開いていたようですね、姉の話ではね姉もわからん、気が付いたら死んでいた」
富里常男さん「目が覚めたときにはね誰もいないし、死体とうめき声だけですからね」「特に僕なんかは1歳半でなにもわからんから、勝手にひもじいから泣くだけ」「姉の話ではお母さんに構ってくれと言わんばかりのことを繰り返していたようだけど、お母さんのおっぱい取り出して、しゃぶっていたようだけどね」

富里さんは集団自決の現場で左腕や足にケガを負い、その傷後は今でも残っています。
富里さん「これは破片のあとですよ、破片が入っていたから戦後取ったんですよ」「これもキズ」
5年前、島に戻ってきた富里さんは戦争体験を語り継ぐことが難しくなっている状況に危機感を感じ、集団自決の実相や、平和の尊さを次の世代へ伝えていきたいと島の歴史や戦争体験を手記にまとめ始めました。
富里常男さん「こんな平和な、この島に戦争で破壊されて過去のことも忘れられて」「何が残したいものなのか、何が反省するものなのか、何を繋げていかなければならないことなのか?というのは大人の責任じゃないのって」

富里常男さん「この抱かれている子がわたし、自身ニューヨークタイムズに載っているやつ」
自身の体験と島で起きた出来事を知るだけではなく「なぜ起きてしまったのか」を追究し対話を続けていくことが平和に近づくと考えている富里さん。
最近では手記をまとめることだけではなく、平和学習事業に取り組む団体と交流を持ち話し合うことを大切にしていると話します。
富里常男さん「この島で何ができるか、私はこれからも(平和継承)をやっていくためには、このことが私自身の生き方として今後の生活のスタイルにして取り組みたいな思っています」
さびら 安里拓也さん「聞くだけじゃ終わらない、その先に何があるのかを考えないといけないよね、というのを私たちが普段からやっている平和学習とか、フィールドワークと一緒なのかなと思ったので、戦争体験の継承、そこからの戦争を防ぐために何ができるのか平和構築のところを一緒にできればなと思っています」

戦争を自分事として考えるようになった富里さんの平和への想い島で起きた歴史を、後世へ繋げるための取り組みが続きます。
当時、日本軍が強制したとされる集団自決については、語る人も語れる人も少なくなっているなかで富里さんは、今後の平和学習のあり方として「なぜ起きてしまったのか」を考えるキッカケとして子ども向けの動画や絵本作成などしていきたいと話しています。
あすは、渡嘉敷島での「集団自決」から80年です。島では、慰霊祭が執り行われます。