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去年12月で軽便鉄道の開業から110周年となりました。戦前、県民の足として、サトウキビや木材の輸送手段として沖縄を支えてきましたが、その「ケービン」が運行を休止するきっかけとなったのは80年前に起きた国内の鉄道史上最悪の出来事でした。

寺崎未来アナウンサー「かつての与那原駅舎が復元された資料館、12月にリニューアルオープンしました。ケービンの歴史は、110年前に開業した与那原線から始まりました」

1914年に開業し「ケービン」の名で親しまれた軽便鉄道「沖縄県営鉄道」。那覇を起点に、嘉手納、与那原、糸満を結びました。

たどる記憶 つなぐ平和 #6「戦争により休止となった軽便鉄道 日本鉄道史上最悪の爆発事故から80年 目撃者が語る」

県民の足としてだけでなく、サトウキビや北部から調達された木材の輸送など旅客としても貨物としても本島の南北を結ぶ大動脈としての役割を果たし、多くの商人や学生を乗せていたと言います。

しかし、戦争の足音が近づくにつれ、ケービンも徐々に軍事使用が進み兵士や軍事物資の輸送を優先。そして、1944年12月午後4時半ごろ事故は起きました。

寺崎未来アナウンサー「喜屋武駅を過ぎて稲嶺駅に向けて走っていた列車は80年前、南城市大里のこのあたりで突如爆発、炎上しました。

部隊を中部から南部に移すために乗った兵士200人あまりと女学生、それに弾薬やガソリンなどの燃料を乗せて糸満に向かって走っていた6両の列車が、機関室から出た火の粉がガソリンや弾薬に引火して大爆発を起こす事故が発生しました。

たどる記憶 つなぐ平和 #6「戦争により休止となった軽便鉄道 日本鉄道史上最悪の爆発事故から80年 目撃者が語る」

大城吉永さん「このあたりで遊んでいた。ちょうどここですよ、大きなガジュマルがあった、あっちまで」

こう話すのは目撃者、大城吉永さん(88歳)。当時、8歳だった大城さんは現場からおよそ200m離れた場所で木に登って遊んでいました。

大城吉永さん「大きな音がしたからパっと見たら、黒い煙があっちから、もうもうと上がってきて、だんだんこっちに向かってきた。それまでは空襲すらなかったけど、いよいよ(戦争が)来たなと思った」

当時、線路の周辺のサトウキビ畑にも数百トンの弾薬が積まれていたため、次々に引火して爆発を繰り返し、その音は一晩中那覇を含む南部全域に響き渡っていたと言います。

たどる記憶 つなぐ平和 #6「戦争により休止となった軽便鉄道 日本鉄道史上最悪の爆発事故から80年 目撃者が語る」

結果、乗っていた人で生き残ったのは女学生2人と運転士のたった3人のみ。日本の鉄道事故で最多の死者220人以上を出す大惨事となりました。

大城吉永さん「この辺が真っ白、包帯とガーゼ、包帯はぶら下がって肉片がぶら下がっていた。2・3日後まで憲兵がずっと巡回していたから、この事故のことは人にしゃべってはいけないとかん口令を敷かれた。集落の人も何も話さずにそのままになってしまった」

貨車6両分の弾薬、1両分のガソリンと医薬品、そして多くの人命を失い大惨事となった爆発事故。日本軍は、この事故の事実を公表しませんでした。

大城さんは生まれ育った場所で多くの人が犠牲になったこの事故を後の世代に伝えていかなければならないと話します。

たどる記憶 つなぐ平和 #6「戦争により休止となった軽便鉄道 日本鉄道史上最悪の爆発事故から80年 目撃者が語る」

大城吉永さん「次の世代に語り継がないといけない。孫が8人いるけど、孫たちにもそろそろ話をしないといけない。沖縄でこういうのがあったと、これから話をしなくてはいけない。よりこれからはいつまで元気か分からないしな。そういう気持ちですね」

その後、鉄道設備は沖縄戦で壊滅的な被害を受け、運行が再開されないまま80年が経過。現在も運行休止状態が続いています。

戦争によって引き起こされ、戦争によって隠ぺいされた日本史上最悪の列車爆発事故。当時の状況を知る人の貴重な証言が平和への思いを伝えています。