戦後80年の節目に戦争について考えるシリーズ「たどる記憶・つなぐ平和」です。今回は、ある女性にスポットを当てます。広島に投下された原子爆弾によって大きく影響を受けた女性が語った自身の体験。そこから見える「不戦への思い」について考えます。
雛 世志子さん「最初はピカッとあってドカンだったからね、ピカッと光った時は物凄く大きな雷、あれの大きなのがなって、すぐにドカンといったときは壁が私に当たってしばらく気を失っていたんじゃないかね」
先月、開催された沖縄在住の被爆体験者の雛 世志子(ひな・よしこ)さんの話を聞く会。
雛 世志子さん「昭和6年10月28日、こないだ誕生日やってもらいました(何歳になりました?)93歳になります。」
雛さんは13歳のとき広島で被爆しました
雛 世志子さん「藁人形2つ作って竹やりであれする、それをさせられるんですよ。」
大阪で生まれた雛さんは、7歳のときに親戚を頼って一家で広島へ。原爆投下の瞬間は広島市内から10kmほど離れた町工場にいました。人を探しに行くという仲間と一緒に市内へいくと、そこには「地獄のような光景」が広がっていました。
雛 世志子さん「後悔した。来なければ良かった。いろんな人が倒れて、やられて、おばけみたいでした。お水ちょうだという人もいるし、助けてといって人の足を引っ張ろうとするし、もう本当に地獄でした。」
爆心地は真っ黒に焼けて亡くなっている人や重傷を負って幽霊のようになってしまっている人であふれかえっていました。市内を流れる川にも熱さから逃れようとした人々が折り重なって流され、死んでいったといいます。市内から戻った雛さんは毎日辛い思いをしながらけが人の看病にあたりました。
雛 世志子さん「焼けただれてウジが湧いている、こうしたら割れて中にウジがいる、ウジが噛んで痛い、助けなきゃいけないからウジを取ってあげて」
しかし、毎日亡くなってゆく人を学校の校庭で火葬しました。
雛 世志子さん「イカを焼いた時にイカがこうして跳ね返って上がってくるよね、人間もこんなして上がってくる、怖かったねとても。(どのくらいの遺体を焼いた?)20、30、もっと焼いたかね」(子どももいました?)「子ども達は泣きもしないで怖い顔して悲惨な顔して。子どももわかるんだろうね、神も仏もいないんだねと感じた。」
西原在住・大学4年女性「お婆ちゃんが沖縄戦の体験者で話を聞く機会はあったけど原爆の被爆者の方に話を聞く機会は初めてだったのでずっと涙が止まらなかった。沖縄だけじゃなくてもっと幅広い視点で戦争について平和について考えていかなければならないなと決意する時間になりました。」
沖縄市カフェ経営者女性「一人ひとりの人生があって、それが原爆によって非常に大きく変えられてしまったり亡くなってしまった人たちがいたんだな、普通の人が普通に生活していたところに原爆とか戦争ってやって来るんだなと思って、胸に響いたことがたくさんありました。」
沖縄原爆展を成功させる会 野原さん「被爆体験聞いてないよねって、あの原爆は何だったのって、何故?という(今は)戦争前夜かって言われるくらいなんですけど、その中でひとつひとつ希望を繋げていきたい、今日は雛さんがお話してくださったことに感謝。」
雛 世志子さん「疲れなかった、こんなにたくさんの人が来て下さって嬉しかった(良かったですね)ウン。」
雛さんは今、沖縄市の老人ホームで穏やかに過ごしています。戦争が終わり、雛さん一家は父親の故郷、奄美大島で暮らし始めますが、1年後、父親は原爆の放射線の影響と思われる白血病で亡くなります。残された母親と姉、雛さんは当時ベトナム戦争で景気が良かった沖縄に仕事を求めて移り住み、基地や夜の街で働きました。
雛さんが働いていたバーで明日ベトナム戦争に出兵するという17歳のアメリカ兵にも出会いました。
雛 世志子さん「明日ベトナムに行って死ぬからお金を積んで、慰めてと言ったときに(居合わせた記者が)あなたはお父さんもお母さんも殺されてアメリカが憎いでしょと言ったけど憎くなかった、この人も私も同じ、悪いのは上の人よね。」
壮絶な生と死を目の当たりにした雛さんには今、心配なことがあります。
雛 世志子さん「孫もひ孫もいるから、戦争はやってほしくない。自分がやっただけでも十分。自分はどうなっても子どもにはちゃんと生きて欲しい(泣く)」
いま思い出しても辛い記憶を雛さんが敢えて語るのには意味があるのです。
雛 世志子さん「いま話する人が少なくなってね、私でも役に立てるのかなと思ってさ。私は賢くもないし、ただ思いだしてこういうことがあったねと役に立てばね。」
雛さんが辛い経験を聞かせてくれるのはひとえに戦争のない、平和を願う心から。その思いを私たちは未来に伝えなければなりません。