つづいては、特集です。太平洋戦争時の1944年アメリカ軍が沖縄本島などに大規模空襲を行った「10・10空襲」からきょうで80年が経ちます。今回は、これまでに家族にも語らなかった自身の戦争体験をカメラの前で語った女性にスポットを当てます。
那覇市内の住宅街のなかにある「国場慰霊の塔」旧真和志村の国場出身者、300人あまりが刻銘されています。その多くは沖縄戦の犠牲者です。
本村記者「今回戦争の話をするのは初めてですか?」渡嘉敷キヨさん(光秋さん)「初めてです。あまり話したがらないから」「いいことじゃないから覚えようとしないわけ」
あの日、那覇を襲った大規模な爆撃。女性は封印していた沖縄戦の記憶を静かに語りました。
渡嘉敷キヨさん「渡嘉敷キヨです」「もういくつになったかね」息子 光秋さん「96さ。数え97」
渡嘉敷キヨさん。旧真和志村生まれで真和志尋常高等小学校の生徒でした。
渡嘉敷キヨさん「真和志小学校で高等1年、高等2年ってあったんですよ」「算数とか国語とか全部ありましたね」「バレーとか。こんなのはありましたね。みんな友達と一緒に。選手選ばれてですよ」
バレーボールが得意だったと当時を懐かしむキヨさん。充実した学校生活の中、次第に戦争の影が迫り始めます。
渡嘉敷キヨさん「戦が来るときは竹やり訓練をやってですね」「それはもう、作業がありましたね。壕掘るときに土片付けたりして。こんなのはいきましたね」
地域の人たちと共に日本軍の陣地壕を構築をするなど日本の勝利を信じて作業を行う日々が続く中、キヨさんの運命を大きく動かす出来事が起きます。
1944年10月10日、アメリカ軍は飛行場などの軍施設を攻撃目標に午前7時前から午後3時すぎまでの5回に渡り本島各地や離島を空爆。街中に空襲警報が鳴り響くなかキヨさんは、自宅近くの壕に母と兄の家族と共に避難します。
渡嘉敷キヨさん「こっち山なっているから何カ所か壕掘っていたんですよ」「空襲のときはもうこっちに来ているはずね。10月空襲の時は壕のなかに」
この空襲で、668人が死亡し旧那覇市は、90%近くが焼失しました。空襲が収まり壕から出たキヨさんが見たのは変わり果てた街並みでした。そして、キヨさん一家はある決断をします。
渡嘉敷キヨさん「お家が燃えたからこっちから具志頭のほうにいっていたんです」「長男兄さんがあっち(具志頭)に知り合いがいたんですよ、して、あっちはお家が残っているからすぐあっちに避難しに行きました。具志頭のほうに」
一家は具志頭をめがけて海岸通りを飛行機に見つからないように必死に逃げたといいます。
渡嘉敷キヨさん「もう岩の角とか。見えられないようにして」「飛行機が飛んでいるときに見えないように、もうずっと海岸通り歩いていたね」
具志頭の知り合いの家に身を寄せていたキヨさん一家。その家も焼け、逃げまわるうちに捕虜となりました。
渡嘉敷キヨさん「もうずっと海岸あるいて、して捕虜されるのは喜屋武岬かね、あっちで捕虜されましたよ」「捕虜されてから、もう知念のほうで長男兄さんが亡くなって」
この戦争でキヨさんは兄と姉を亡くしました。今年96歳のキヨさんは今では多くの孫やひ孫に囲まれて暮らしています。しかし、今まで家族に戦争の話をすることはありませんでした。
本村記者「今年で10・10空襲も80年、だからお孫さんにお話聞きたいっていわれたらキヨさんは伝えますか?」
キヨさん孫の写真を見つめて沈黙。
光秋さん「いい話じゃないから、聞かさんはずね」
写真を見つめ何も語らないキヨさん。17歳で体験した戦争の記憶を家族にも打ち明けることができないキヨさん。80年経ってもいえない傷があそこにはあります。
今回、キヨさんは自身が体験した戦争を初めて語ったということですが、後ろでキヨさんの話を聞いていた息子の光秋(ミツアキ)さんでさえあまり聞いたことは無かったと話していました。
多くの人の命が奪われた10・10空襲。その記憶は、体験者にとって決して消えることのない、そして語ることができない深い悲しみとなって残っています。