きのうからお伝えしている対馬丸事件特集「海に沈んだ子供たち」です。事件当時、4歳で家族と共に乗船しひとり生き残った男性がいます。生存者として、周りの視線が気になり長い間、あの出来事を語らず沈黙し続けてきた男性が、語り部として活動を始めた思いに迫ります。
照屋恒さん「この写真だねこっちに展示されているのは」
セピア色の写真をみつめる一人の男性、照屋恒さんその目線の先に映るのは姉の美津古さんです。1944年のあの日、兄弟と母の生死を分けたアメリカ軍の魚雷攻撃。
照屋恒さん「対馬丸の話は自分からしたことはなかったです」「どういう形で自分がこういうものを語り部としてやればいいのかなということを試行錯誤しながら自分のストーリーを作って話しているというのが現状なの」
自ら閉ざしていたあの出来事を語りだす照屋さんの80回目の夏。4歳のころの記憶を点と点で繋ぎ合わせながら当時を思い出します。対馬丸記念館の一室。木漏れ日が差し込む室内で照屋さんは自身の体験を静かに語り始めました。
照屋恒さん「照屋恒、今年で85ですね」「生まれたのは泊で生まれたらしいんだけど、皆、親たちは軍にね、協力するということで大阪の兵器を作る工場に結構いっているわけですよ」
照屋さんは生後すぐに大阪の軍事工場で働くことになった父の規善さんら家族4人で移り住みますが一家は里帰りを兼ねて沖縄に行くことになりました。
しかし滞在中の1944年7月、サイパンが陥落。当時の日本政府は、南西諸島の防備は本土防衛の防波堤と考え、戦力にならない老幼婦女子を疎開させることにします。
照屋恒さん「里帰りして、そうこうしているうちに沖縄が戦場になるよと言うことでじゃあ帰らんといけんということで乗ったのが対馬丸」
1944年8月21日、対馬丸は1788人を乗せ長崎港に向け出発。照屋さんも母のシゲさん、姉の美津子さんと共に乗船しますが、8月22日午後10時すぎ悪石島の沖合を航行していた対馬丸にアメリカ軍の潜水艦「ボーフィング号」が魚雷を発射し命中、その時の様子を照屋さんが語り始めます。
照屋恒さん「私の場合はですね、一般ですから4歳だったら寝ています。船尾のほうでね、そして、母親に起こされて手を繋いで甲板にあがりました」「母親に手を繋がれて飛び込んだと」
照屋恒さん「しばらく周囲が静かになった時点で母親いわく、お姉ちゃん探してくるから「絶対離すなよ」と、これを離してしまったら沈むというか母親は絶対離すなよと。どこにいるかも分からないような人を探しに行くということで手を離していったということです」「それが母親との最後の別れですけどね」
照屋さんは数十時間漂流後、カツオ漁船に救助され鹿児島に到着。その後、宮崎や大阪に住む親戚を転々としたのち、6歳で沖縄に戻り、祖母に育てられます。しかし、照屋さんを待っていたのは生存者であるがゆえの周りからの目線でした。
照屋恒さん「一番いやだったのが、おばあちゃんと一緒にあるいているときに親戚の人や知り合いの人がおばあちゃんと止まって話をするときに(この子ね、対馬丸で助かった子は)と言われるわけ。それが一番いやだったわけ。それが話題になること自体、一番いやだったわけ」
照屋さんは対馬丸での体験そして生存者であることを隠し高校卒業後、一般企業へ就職定年退職まで自ら話をすることはしませんでした。しかし、70歳の時、高校の同級生でもあり対馬丸記念館の理事長を務める高良正勝さんからの誘いもあり語り部としての活動を始めました。
照屋恒さん「先輩たちがやっぱり厳しいということでリタイアしていくことが多いという。こういうことを協力しておかないといけないんだということを自分で認識してやりますということでやった」
照屋恒さん「4歳の時の(記憶)というのはまったくないもんだから、どういう形で自分がこういうものを語り部としてやればいいのかなということを試行錯誤しながら自分のストーリーを作って話しているというのが現状なの」
70歳から始めた語り部は今年で15年目照屋さんのもとには県外からも講話希望者が訪れます。
来場者「こんにちは。よろしくお願いします。」
照屋恒さん「一生懸命凝視して、反応やったときにこうして頷いてくれたりね、そういう時はやっぱりしやすいよね」「私はまたこういう人たちと話をするのが楽しみなの」
大阪からの来館者「他の方とかは亡くなられているに、悲しいのにそれに対して全然しゃべられない苦しさっていうのが何か切ないなって思いました」
大阪からの来館者「直接被害にあって生き残れたかたの証言を聞くことができてすごくよかったと思うんです」
照屋さんは対馬丸事件の体験者として今を生きる人に伝えたいことがあるといいます。
照屋恒さん「戦争は絶対にダメよと。この一言につきますね。若者たちにもこういう戦争はなにも生まないよと。本当に過酷なものだよというのを広くお話してね、皆さんに理解して頂いた方がありがたいなと思います」
当時4歳で対馬丸事件を経験した照屋さん、対馬丸事件を生き抜いた語り部として二度とあの悲劇を繰り返さないよう自身の想いを届けます。
この事件の記憶を「点と点」で繋いで話していると語った照屋さん。沈む船から自分を守り、姉を探しに行ったまま戻らなかった母親との思い出について「わずかしかない」とおっしゃっていました。事件ことや家族のことを忘れないためにも照屋さんは今も語り続けます。
対馬丸記念館では、きょうから9月22まで特別企画展を開催しており、最終日には照屋さんの講話も行われるということです。