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今週は沖縄国際大学へのヘリ墜落事故について考えるシリーズ「危険性、今も」をお送りしています。2回目のきょうは、当時の行政トップの目線から事故をとらえます。様々な問題に直面する中、行政トップが当時求めたことは20年を経てどう変わったのでしょうか?

当時の宜野湾市長・伊波洋一参院議員「まだもくもくと水蒸気が立ち上っている。一部は煙も立ち上っている状況でとにかく騒然としていたことは覚えています」

こう振り返るのは当時宜野湾市長だった伊波洋一参院議員。前の月に行った訪米活動の報告会中に一報が入り、会を中断。その後向かった現場で目にしたのは黒く焼け焦げている校舎でした。事故を受け日米両政府に対して要請や調査をしてきた中で普天間基地の大きな問題点があると指摘します。

当時の宜野湾市長・伊波洋一参院議員「クリアゾーンというエリアが確保されないといけないが、これがない。この中に小学校が入っている、一番墜落事故が起こる可能性が高いところに」

沖国ヘリ墜落から20年「危険性、今も」2 当時の行政トップ語る20年前の願いと今

アメリカの安全基準が適用されていない普天間基地。事故が起こる前から普天間基地の運用の見直しや早期閉鎖・返還を求めてきた伊波さんですが、事故後も日米両政府に危険性を指摘してきました。

伊波・宜野湾市長(当時)2004年8月18日「今回の事故を機会に普天間基地でのヘリ運用をやめるべきだと強く申し上げた。今のような形で運用し続ける限り、また新たな事故が起こると」

事故から20年が経った今の状況をどう見ているのでしょうか。

当時の宜野湾市長・伊波洋一参院議員「この20年を経て、こんにちなお、解決されないどころか、むしろ危険性が積み上がってる。とりわけオスプレイ(配備)や、あるいは外来機、これ今や年間の飛行回数が3000回ぐらいになってますので、そういったことを考えるとね、やはり国としては解決を本当にやんなきゃいけない」

沖国ヘリ墜落から20年「危険性、今も」2 当時の行政トップ語る20年前の願いと今

当時の県知事・稲嶺恵一氏「沖縄に戻って実際に(事故現場を)見てみると、色々とんでもない一歩誤れば大事故になったってことがわかりましてね」

出張先の南米・ボリビアで深夜にたたき起こされて一報を受けたという当時の県知事・稲嶺恵一さん。事故を受けて予定の一部をキャンセルし、急遽帰国。

稲嶺知事と小泉首相面談(2004/8/26)南米から帰国したその足で当時の小泉総理との面談を求めましたが、小泉総理の「夏休み」を理由に叶わず面談が実現したのは事故から13日後でした。その後、沖縄に戻り、現場の視察などを行う中で見えてきたのは「日米地位協定の壁」でした。

当時の県知事・稲嶺恵一氏「大学に行って皆さんのお話を聞いて、関係者の話を聞くと、非常にみんなが強い不満を持っていたのは、全く立ち入りができなかった。警察さえも入れなかった、消防も入れなかったのは地域協定の壁も強さですね。これを改めて感じましたね」

沖国ヘリ墜落から20年「危険性、今も」2 当時の行政トップ語る20年前の願いと今

知事として普天間基地の辺野古への移設を容認した稲嶺さん。しかし、普天間基地は今もなお宜野湾市の中心に横たわったままです。

稲嶺知事(当時)2004年8月18日の帰国会見「沖縄の基地のあり方をこのままでいいのかと全国民がやっぱりわかっていただかない限り、この問題はなかなか進まないと思っている」

事故当時、沖縄の基地負担のあり方についてこう語っていた稲嶺さん。事故から20年たった今、普天間基地の危険性除去のため何が必要なのか。帰ってきた言葉は20年前と同じでした。

当時の県知事・稲嶺恵一氏「一番重要なのはやっぱり国防の地位協定問題については、全国的にもう一度しっかり見直しをしてね、日本の防衛のあり方はどうあるべきかということをやはり論議にしてほしいと思う。」「そうするとわずか人口で1%、面積としては0.6%に過ぎない沖縄に荷重な負担を置くのはどう問題があるということをやっぱり全国民が認識して頂くわけですよ。それを強く望みたい」

事故から今年で20年。今も危険性が置き去りにされたままの普天間基地。そして当時求めた思いが今も変わらない現状。政府が語る「1日も早い危険性の除去」はどう実現されるのか。政府そして国民が沖縄の基地負担とどう向き合うのかが求められています。