沖縄が本土に復帰して52年となった2024年5月15日にかけて各地で平和行進が行われ、参加者が〝基地のない平和の島の実現〟を訴えました。
このうち宮古島市では2024年5月11日、およそ80人の市民が旧市役所を発着点に市街地を行進、今、なお続く沖縄の過重な基地負担や政府が進める南西諸島への軍備強化に反対の声を上げました。
参加した人は「絶対に戦争は反対という気持ち起こさせたくない戦場にしたくない」と話し、記者の「5・15に思いはありますか?」との質問に「もっと良くなると思って基地なんかなくなると思って復帰を願ったけど増強されて悲しい」と述べました。
また石垣市では2024年5月15日、およそ100人が参加する行進が行われ市街地の公園を出発する10キロほどを練り歩きながらシュプレヒコールで力強く平和を訴えました。
シュプレヒコール「米軍基地を撤去せよ」「日米地位協定を改定せよ」
参加した人たちは、本土復帰から52年を迎えた節目に改めて今の暮らしを見つめ沖縄や八重山が置かれている状況について考えているようでした。
参加した人は「自衛隊が出てきて問題を醸し出している非常に残念」と話しました。
一方、林官房長官は、2024年5月15日の会見で沖縄の負担軽減にどのように取り組むか問われ、「大きな基地負担を担っていただいていることは重く受け止めている」としたうえで次のように述べました。林官房長官は「わが国の防衛力強化の必要性も含めてさまざまな機会を通じて地元の皆様への丁寧な説明を行い、また意見交換をしながら普天間飛行場の一日も早い全面返還を実現し、そして沖縄の基地負担軽減を図るため全力で取り組んでいく考えでございます。」と述べました。
【復帰当時と今で何がどう変わった?】
きょう5月15日はここ沖縄にとって大切な日”本土に復帰した日”です。きょうがどんな意味を持つ1日なのか…改めて当時の様子やモノ・事柄から紐解いていきたいと思います。
まずは沖縄の成り立ちになりますが、もともと琉球藩だった沖縄が沖縄県になったのは1879年のことです。それから60年あまりが経って日本は太平洋戦争に突入します。1945年にアメリカ軍が沖縄に上陸して占領、それから27年に渡ってアメリカの統治下に置かれます。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効され、日本は主権を回復しますが沖縄は引き続きアメリカの施政権下に置かれることになります。沖縄ではこの日が”屈辱の日”とされています。
そして1969年11月の日米首脳会談で当時の佐藤総理とニクソン大統領が1972年5月15日の沖縄の本土復帰に合意したのです。この本土復帰で何がどう変わったのか見ていきます。
まずは人口です。
復帰当時96万人だった人口は今年4月には146万2000人あまりと1.5倍以上に増えました。経済は県内の総生産は4592億円でしたが2018年には4兆5056億円と10倍にまで増えています。
入域観光客は復帰当時44万人でしたが、2019年には1000万人を超えてコロナ禍後も観光が県経済を支えています。世帯所得は1973年の世帯収入が12万8621円でしたが、2020年には39万162円と3倍に増えています。ただ全国平均は60万円あまりで倍近くの差がありいまだに大きな課題となっています。
そしてモノの値段です。ランチョンミート・にがうり・お米で比較すると…ランチョンミートが一缶127円から354円になり、にがうりが1キロ510円から758円に、お米10キロは840円が2020年には5キロ2314円と5倍に増えています。
こうした身近なモノの変化が多々ある中で今も変わらないのが沖縄に残った基地の存在です。
国土面積わずか0.6%の沖縄に全国のアメリカ軍専用施設の7割が集中していて復帰当時に県民が願った”基地のない平和の島”は実現していません。
【名護市、基地使用協定締結を要請/国と市、地元地区の会合/過去に合意も進展せず】
本土復帰から52年となった2024年5月15日、基地問題では、このような動きがありました。
辺野古新基地建設に伴う影響を話し合う会議が、国と名護市長らが参加して開かれました。
2024年5月15日、東京で初めて開かれた会合には、国は栗生官房副長官、名護市からは渡具知市長や久辺3区の代表が参加しました。この中で名護市は、新基地の使用協定について、政府との協議を求めたということです。
会合終了後に記者団の取材に応じた渡具知市長は、これまで基地建設への賛否を明確にしない中での協議会への参加について「市民の不安を払しょくさせるための参加で、協議を行うことが移設を認めるということではない」と述べました。
辺野古新基地の使用協定については、2002年に国と県、名護市の間で基本合意書を結んだ経緯があります。この時、安全や騒音の対策として、飛行経路や飛行時間の規制を行うことを決め、工事の着手までに措置の内容を明確にし、基地の供用開始までに使用協定締結する方針を取り交わしています。
QABは、この基本合意書が現在も有効なのか、防衛省に質問しましたが、2024年5月宇15日夕方までに回答はありませんでした。
基地使用協定の締結は、1999年に当時の岸本名護市長が普天間基地の辺野古への移設を容認した際に、示した7つの条件の一つに挙げ、当時の会見でこのように強調しています。
岸本名護市長(当時)「(基地建設が)住民生活に著しい影響を及ぼさないことであり、それを保障するものとして、日本政府と名護市が基地の使用協定を締結すること、このような前提が確実に実施されるための明確で具体的な方策が明らかにされなければ、移設容認を撤回するものであることを、市民の皆様にお約束し、容認の意思を表明するものである」と述べました。
【記者解説】
ここからは塚崎記者とお伝えしていきます。
岸本元市長の条件は守られないまま、基地建設は行われてきていることになります。ここからは塚崎記者です。名護市が辺野古新基地の使用協定を求めました。どういった意味があるのでしょうか。
塚崎記者「はい。新基地の使用協定については、2002年に基本合意書を結んだ経緯もあります。 基本合意書では飛行経路や飛行時間などを決めることとし、工事着手までに措置の内容を明確にし、供用開始までに協定を締結するとされていました。すでに新基地建設の工事は始まっているわけですが、協定は表立って進展しない状況が続いてきました」
使用協定はかつて名護市が基地建設を容認したときに示した条件の一つだったということですが、ほかにどのような条件があったのでしょうか。
塚崎記者「1999年に環境への配慮や、施設の最小化などご覧の7つの条件を示して、当時の岸本市長が移設を容認しました。例えば辺野古に造る基地の使用期限について、岸本市長は当時、15年とするよう求めていました。使用期限について、政府は閣議決定でアメリカ側と協議することを定めましたが、具体的な進展はみられないまま、政府は2006年、今の新基地建設の計画を決めた際に当時の閣議決定を廃止し、岸本元市長が示した条件は無効化されました」
岸本元市長は条件の中で、さらなるアメリカ軍基地の整理縮小についても掲げていました。ここで、復帰当時の状況と復帰50年だった2022年の状況を改めて比較したいと思います。
アメリカ軍の専用施設の割合で比較すると、施設の数では83から31と半分以下になったものの、面積では50年間でおよそ3割減ったのみとなっています。また、全国に占めるアメリカ軍専用施設の割合は、復帰当時の58%から逆に70%へと上がっています。
本土に比べて沖縄では、アメリカ軍専用施設の返還が進まなかったことを示しています。
塚崎記者「加えて、自衛隊の増強です。県に記録が残る復帰から14年後の1986年以降の比較です。おおむね6千人程度で推移してきた人数ですが、2014年ごろから増えはじめ、去年の時点では8千人を超え、10年足らずで2千人が増えたことになります」
どういったことが要因にあるのでしょうか。
塚崎記者「陸、海、空の自衛隊別で人数の推移をまとめると、2010年以降に陸上自衛隊が急増しているのが分かります。これは、2010年代からいわゆる「南西シフト」として、与那国島、宮古島、石垣島と新たに駐屯地を置いてきたことが大きく影響しているとみられます」
アメリカ軍基地に加え、現在は自衛隊基地の増強も見えてきているわけですが、私たちが本土復帰の節目に、基地問題をどのように考えればよいのでしょうか。
塚崎記者「1999年に辺野古への基地建設を容認した岸本元市長の言葉に、ヒントが隠されています」
岸本名護市長(当時)「沖縄の米軍基地が、わが国の安全保障のうえで、あるいはアジア及び世界の平和維持のために不可欠であるというのであれば、基地の負担は日本国民が等しく引き受けるべきものであります。しかし、どの県もそれをなす意志はなく、またそのための国民的合意は形成されず、米軍基地の国内分散移設の可能性は全くないというのが現状です」
塚崎記者「当時から状況は全く変わっていないと思います。岸本市長はそのように考えて、条件を付けて基地建設を容認したわけですが、条件はほとんど守られないまま、工事は進んでいます。昨今は安全保障環境が厳しいとして、政府は県内での特に自衛隊の強化に取り組んでいますが、そこに住民の視点は全く欠如しているうえ、南西シフトの問題も含めて全国的、という前に基地建設が先島で進んできたために、県内全体でも議論になかなかなっていない状況もあると思います。このような状況を変えていくためには、沖縄の基地問題を沖縄だけの問題にせず、日本全体に問うていくことが重要です。これはずっと県民も主張し続けてきたことですが、本土復帰の節目に、その論点を改めて確認すべきです」
元市長があれだけ条件に挙げたこと、何の意味があったのか、52年復帰から経った今だからこそ、改めて見つめる必要があると思います。