2020年の夏、猛威を振るっていた新型コロナの影響で甲子園大会が中止となり、当時の球児たちは大きな喪失感を味わいました。あれから3年、夢を奪われたあの夏を取り戻そうという一大プロジェクトが行われ2020年の優勝校、八重山ナインが聖地を踏みしめました。
朝日に照らされて輝く、阪神甲子園球場。全国の激戦を勝ち抜いたチームだけが立つことができるこの場所はまさに高校球児にとっての聖地であり、夢舞台。この場所に3年越しの思いを胸にやってきたのは少し歳を重ねた、元八重山高校の球児たちです。
2020年、夏の県大会決勝戦。3年生全員が出場し、悲願の初優勝を果たした八重山高校。歓喜に沸く一方で、この夏は新型コロナの影響で戦後初めて全国高校野球選手権が中止となりました。県大会を優勝したその先に、甲子園がなかったのです。
気持ちは切り替えたつもり、ではありましたがそこにはやはり諦めきれない思いもありました。
八重山高校主将(当時)内間敬太郎さん「こうやって優勝という最高の形で夏を終えられたので最高の夏でもあったし甲子園がないという悔しい夏でもあったと思います」
そんな八重山ナインを始め、甲子園の夢を失った全国の球児の夏を取り戻そうと当時の高校3年生で、現在は大学生の大武優斗(おおたけ・ゆうと)さんが発起人となり全国元高校球児野球大会が開催されることになりました。舞台はもちろん、甲子園です。
八重山高校野球部OB(当時エース)砂川羅杏さん「今ここに来られてすごい新鮮な気持ちというか、今興奮している感じです。あの夏、失われた夏なので、その夏を取り戻すために甲子園での1プレー1プレーを噛みしめて全力で楽しみたいと思います」
八重山高校野球部OB(当時ファースト)亀川優さん「沖縄代表として思い切りプレーしたいと思います」
大会は各チームのシートノックから始まりました。他のチームに先駆けて、1番目が八重山ナインの時間です。誰も足を踏み入れていないまっさらな甲子園のグラウンドへ。スケジュール上、各チームに割り当てられた時間は「5分」のみ。それでも、あの夏には果たせなかった、かけがえのない時間が始まりました。
「ノッカーはメンバー下地寛太郎の父・寛正さん、自身も1988年に八重山の主将として沖縄大会準優勝」
野球を続けているメンバーも、そうでないメンバーもいて、プレーはあの時と同じとはいきませんが、あの時と同じようにみんなで野球小僧に戻って、聖地でのプレーを噛みしめました。
八重山高校野球部OB(当時セカンド)花城羅文さん「憧れていた場所で広くて素晴らしい場所でノックをできたことはよかったです」
八重山高校野球部OB(当時3番打者)下地寛太郎さん「本当にめちゃくちゃ短くてあっという間の5分間だったんですけど楽しむことができたと思います」
八重山高校野球部OB東川平亮輔さん(当時ファースト)「あとユニホームと、このグラウンドに立ってプレーできたことを誇りに思ってこれからの野球人生を歩いていきたいと思います」
シートノックのあとに行われたセレモニーではあの夏、歩くはずだった入場行進も実施されました。八重山はマネージャーだった波照間早紀さんがプラカードを持ち、当時の3年生21人が全員そろって、聖地を踏みしめました。
八重山高校野球部OG(当時マネージャー)波照間早希さん「みんなの夢だった甲子園球場のグラウンドの上に立っている実感を感じて感動しました」
メンバー宮良忠利さんの母・治子さん姉・舞花さん(母・治子さん)「感極まって胸がいっぱいでした」姉・舞花さん「この甲子園の土を踏んでいることが本当に夢のようで本人たちが一番それを感じていると思います。すごいうれしかったです」
八重山高校野球部OB(当時ショート)宮良忠利さん「お母さんもお姉ちゃんも小さい頃から自分の野球を応援してくれていたので、こういう甲子園の舞台で見せられたのは最高の恩返しになったのかなと思います。
メンバーも父母会も、当時、見ることができなかった景色を噛みしめた甲子園での時間。その後は、抽選で決まった4チームによる2試合が行われ残念ながら八重山は甲子園での試合は叶いませんでしたが翌日に、別の球場での試合が待っていました。
たとえ球場は違っても、優勝したあの夏の続きをー3年越しにやってきた、このメンバーで挑む最後の試合。1球1球に全力で、ベンチも声を出し続けます。
1回表1番宮良のショートゴロ!相手エラーでベンチ沸く!1回ウラ、ライト・下地ファインプレー!
八重山はエースの砂川羅杏が好投。(2回ウラ連続三振)
打っては4番の比嘉久人が犠牲フライを放ち、先制点をあげます。その後は逆転を許してしまいますが八重山はあの夏の決勝と同じく、選手20人全員が出場し途切れることのない笑顔で試合を進めていきます。
3対1と2点を追いかける7回、試合時間が決まっているため、これが最終回に。チャンスを作った八重山は、3年前の決勝では先発投手を務めた幸喜大雅。目指していた甲子園とは少し形は違ってもどの時代にもない、彼らだけの甲子園。あの夏の続きとして、八重山ナインの記憶に刻まれました。
八重山高校野球部OB(当時4番打者)比嘉久人さん「常にどんなプレーが起きてもみんな笑顔だったので、めちゃくちゃ良い試合ができたと思います。この代しか経験できていないのでその点はとても貴重な経験だと思います」
最後に、あの夏を「悔しい夏」と口にしていた当時のキャプテンに、2日間を終えての思いを聞きました。
八重山高校野球部OB(当時主将)内間敬太郎さん「甲子園で試合ができなかったことは心のどこかでしたかったなとは思うんですけど、甲子園でシートノックができたというのはこれから先も僕らは忘れることはないと思うので感謝でいっぱいです。これまで過去にとらわれてずっと引きずっていた部分があったんですけど、何か少し良い方向にプラスに変わっている気がするのでこれから個人個人やるべきことをしっかりやって、どこかで恩返ししていきたい。最高の2日間で、これから先一生忘れないと思います。」