今を生きる私たちが50年、100年先の沖縄の未来を見ていくシリーズ「IMAGINEおきなわ」では県民を巻き込む激しい地上戦が起きたことでわずか3カ月の間に軍民あわせて24万人あまりが命を落とした沖縄戦について考えます。
戦後78年という月日が経った今、体験者から直接話を聞ける機会が日に日に減っていくという現実があります。貴重な体験者の記憶だけでなく、その時の感情までを”見える化”することでよりリアルに追体験できるようにした「劇」が忘れてはいけない戦争の教訓と平和の尊さを語り継ぐ大きな役割を果たしていました。
沖縄戦の体験者・大城勇一さん「戦争というのは残酷で怖いものだと知らないといけない」「戦争が起こった時に軍隊というのは住民を守らないということはこれははっきりしている。どんな戦争が起こっても」
平和劇の創作者・永田健作さん「実際に体験されている方の言葉なので、もう本当に心揺さぶられて突き動かしてくれますよね。何とかこの人の言葉を残したい。何とかこの人の思いを伝えたい」
90歳になろうとしている沖縄戦を体験した男性と劇の創作で記憶の継承に挑む戦争を知らない若者、2人の立場は違っても”過去の悲惨なできごとを風化させてはいけない”という同じ思いがありました。
「戦争体験者の記憶・感情 平和劇でより鮮明に」
大城勇一さん「スパイ扱いされたということ」「殺すためのスパイ容疑です」「我々がスパイをやったということではなくて殺すための口実として」
宜野湾市に住む大城勇一(おおしろ・ゆういち)さん、89歳。78年前の沖縄戦当時は11歳の小学5年生でした。幼心に味方だと思っていた日本兵から突如としてスパイ扱いされたことが今も脳裏に焼きついています。悲惨な沖縄戦の体験を後世に残そうと大城さんは20枚以上の手記にまとめていました。
大城勇一さん「兵舎がないもんだから、一般の住人の家に宿舎みたいに入り込んでいる。たくさんの兵隊がくるもんだから、住める場所がない」
大城さんの出身地「南風原」では沖縄戦が始まる数年前から戦争に突入する足音が忍び寄っていました。
というのも…学校や公民館が旧日本軍の兵舎や倉庫として使われるなど住民の生活が軍事優先に染まっていくなか大城さんの自宅には、兵士が寝泊りするなど県民に紛れて戦争の準備を着々と進めていました。
11歳だった大城少年は兵士と遊ぶなど交流があり、親切にされていたというのです。1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸したことで沖縄戦が始まることになります。大城さん一家も親戚ら9人で南を目指して避難することを決めました。
戦火を逃れる避難生活はおよそ3カ月にも及びます。4月下旬に自宅がある南風原村照屋を出たあとは親戚や知人の家を転々とするなか洞窟や墓地で寝泊りすることもありました。
艦砲射撃や機関銃など”鉄の暴風”に見舞われる日々が続き、いつ命を落としてもおかしくない状況だったといいます。
大城勇一「弾にあたって爆弾とか艦砲射撃で吹っ飛ばされて跡形もなく死んだ方がかえって幸せだというふうな感じしかなかった」
余裕がない避難生活を強いられたなか、日本兵との思い出が記憶をよぎる場面がありました。
※糸満市・ジョン万ビーチ(旧・小渡浜の大通りを過ぎ摩文仁に通じる掘割の近く)
「土手にもたれて座っている一人の日本兵がこちらを見て笑っている」「だんだん近づいて見ると口を開けて硬直している」
大城さんたちが目的地の摩文仁に到着する直前のできごとです。大きな通りで笑顔を見せる日本兵に出会えたと思った大城さんが少しずつ駆け寄っていくと…
大城勇一さん「人間は死んだら口が開く。開いた状態が遠くから見たら笑っているように見える」
実は、座ったまま死んだ兵士だったというのです。つらい戦争から守ってくれると信じていたかつての記憶が顔見知りの兵士が助けてくれるかもしれないという幻想を抱かせたのかもしれません。体も心も追い詰められていった大城さんに追い打ちをかける仕打ちが待っていました。
大城勇一さん「『捕虜になったら後ろから手りゅう弾を投げて打ち殺すから覚えておけ』と言ってきた」「とんでもない」「やってもいないのにスパイ呼ばわりして殺すということ」「それは捕虜にならないようにするため」
海岸の岩穴に避難している時に戦況の悪化がわかるようになり、アメリカ軍に投降して捕虜になることを考え始めた時のことです。大城さんたちの行動が近くにいた日本兵に気づかれ、突如、スパイ呼ばわりされ殺されかけたのです。
「日本の軍隊では機密保持の立場から、『死んでも捕りょになるな』、言い替えれば、『捕りょになる前に死ね』という戦陣訓があり、これを一般住民にも強要し、玉砕精神を植えつけた。」
当時、陸軍大臣だった東条英機(とうじょう・ひでき)が軍人としてとるべき行動規範として「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず死して罪禍の汚名を残すこと勿れ(なかれ)」と示した戦陣訓です。
日本軍に施された戦時中の思想教育がし烈な地上戦に巻き込まれた県民(もしくは住民)にも影を落としていました。家族で逃げ惑うなか、7つ上の姉・菊さんが体調不良を訴え、家族の前で倒れます。
「両親が介抱している最中、突然摩文仁の丘からダダダッ、ダダダッ…と機関銃の銃弾が足もとに飛んできた。我々家族はアダンの茂みの中に逃げこんだ。菊をかまう時間などない」
「しばらくしてから、父は『菊の様子を見てくる』と言って母と二人で出かけていった。父母は帰ってきて『死んでしまっていた』と言って。合掌した」
大城勇一さん「どうせ自分たちも死ぬかもしれないという気持ちがある人が死んでいるのを見てもかわいそうとかそういう気持ちは全然なかった」
激しい銃弾を避けることに追われ、姉が亡くなっても涙を流す時間や悲しむゆとりなどありませんでした。当初9人で逃げた大城さん一行は、姉と母の2人が犠牲になったほか、避難の途中で離れ離れになった親戚とも連絡がつかなくなるなど結局、4人が生き延びました。
平和劇の創作者・永田健作さん「顔を真っ赤にして涙も溜めて本当に2分ぐらい話の途中で言葉が、気持ちがいっぱいいっぱいになってしまって、言葉が出なくなってしまった。その姿を見たときに、戦後70年以上経ってもなお、こんなに苦しんでいる姿を見て、この沈黙を見たときに、『絶対に大城さんの体験談を劇にしたい』と思いました。」
日本兵に裏切られたとも言える大城さんの沖縄戦は平和学習にも使われる”劇”になっています。創り出した人物はかつて舞台演劇の俳優として活動した経験を持つ那覇市出身の永田健作さんです。戦争体験者の証言を記録する仕事に携わっている時に大城さんに話を聞いたことがきっかけだったといいます。
平和劇の創作者・永田健作さん「命を大切にしなさいとか、戦争は良くないことだとかという本当に耳なじみのあるよく聞いた言葉だと思うんですけどやっぱりそれをストーリーの上に、しっかり乗せることによって、その当たり前の言葉がすごく胸に突き刺さるようになるのではないかなと思う。」
永田さんは劇の作り上げるために100冊以上の本を読んで沖縄戦を学び直しました。体験者から直接話を聞いたり、戦跡をめぐったりするなど自ら見聞きした情報を詰め込んで、見た人の没入感を高めた「平和劇」は年に4回、中学生の平和学習で活用されるようになっています。
慰霊の日を目前に控えた18日には、大城さんの体験をもとに造られた平和劇が糸満市の平和祈念資料館で上映されます。劇のモデルとなった大城さんが初めて鑑賞に来ることも決まっていて限られた時間のなかで行われる稽古には本番さながらの緊張感が漂っていました。
平和劇の創作者・永田健作さん「とにかく誠心誠意、自分たちにできることをやり尽くすことやっている。評価は見てくださったお客様が感じることなので、どう評価してくださるかとのは全くやってみないとわからないけれどとにかくその幕が開ける1分1秒前まで自分たちができることを精いっぱい やる。それだけですね。」
沖縄戦の体験者・大城勇一さん「偉いよ、本当に。我々戦争体験をした人からすると、そういう人たちがたくさんいれば戦争も起こらないようにできるという風に思っている」「(平和劇を)見たいですね」