シリーズでお伝えしている「復帰50の物語」。きょうは沖縄の戦後、そして本土復帰を身を粉にして働きながら乗り越えてきた経営者のエピソードです。
車の通行が右から左に変わった1978年の730(ナナサンマル)。本土復帰を象徴する事業で自らの命運を託した「あるもの」に焦点を当てました。
1978年7月、日本の交通ルールに変更される直前の映像です。まだ車はアメリカ統治時代と同じく右側を通っています。
7月30日の一斉変更、いわゆるナナサンマルに向けた準備の様子も記録されています。そのさまざまな場面で映し出されているのが右側通行用の道路標識を隠すためのカバーです。
730に県警の交通規制班長として関わった久高弘さん。そのカバーの実物を持っていました。
久高弘さん「昭和53年7月30日から車は左だよと、左に変わるよということをあらかじめ前からPR・広報しようということであのように書いて」
久高さんのカバーを拝借してある企業へ。標識カバーの縫製、納品を一手に請け負った本人を訪ねました。
砂辺松福会長「もうちょっと大きい(サイズの)ものもあったかと思うが、これを24万枚作らせてもらった」
沖縄自動車道北中城の通称メガネトンネルのそばにある建物。創業から57年の砂辺松福テントの店舗兼作業倉庫です。
地域の運動会やNAHAマラソンを始め、さまざまなイベントでテントのレンタルなどに留まらず、設営・撤収、パネルの製作、イスやテーブルの提供といったサービスを展開しています。
1992年、平成の首里城復元の際には大きなテントを設営し、職人たちの作業場を提供しました。そして完成後は祝賀会場として使うアイディアが好評を得ました。
当時の写真を見せてくれたのが久米島出身の79歳砂辺松福さん。自身の名を会社につけて起業し、日々懸命に働いてきました。標識カバーをはじめ昔の資料は残ってないといいます。
砂辺松福会長「(久米島の)中学を卒業してその翌日に集団就職で那覇に出てきて、自分でいつかは主(社長)になるということで頑張って、本当はこういう時期が来るのだったらもっと写真とか(カバーの)縫製状況も残しておけば良かったかなと思っている」
戦後沖縄では、アメリカ軍から払い下げられたの綿でできた丈夫なテントを加工して米を干すシートや、商店の日除けなどに作り変え商売にする人たちがいました。
その中で松福さんは、丈夫で取り外しがしやすいトラックのカバーをつくって自動車会社に営業するなど頭角を表します。
砂辺松福会長「(骨組みのパイプに幌を)二重にかぶせてスポッとはめられるような感じで、私がその幌の作り方も最初に考案した」
そして迎えた1972年の本土復帰を機に、県外企業によるインフラ整備が本格的に始まりました。松福さんは起工式などのテント需要でビジネスチャンスを得ます。
そこから6年、松福さんの社運をかけた730の挑戦がやってきました。県外企業に決まっていた道路標識のカバー製作の仕事をその前の年の夏、「沖縄の企業が請け負うべきだ」と行政にかけあったのです。
砂辺松福会長「大量につくるものについては沖縄県の業者にぜひさせて欲しいというのは、僕の熱意とあの頃の県議や衆議院の代議士に相談してぜひということをやったものだから」
結果、縫製・納品について受注することに成功しました。さらに、トラックのカバーをつくった経験が使い勝手の良い標識カバーを生み出す原動力にもなりました。
砂辺松福会長「本当は(カバーを標識に)ロープでぐるぐる巻くような形だったが、私の縫製の考案でこれ(カバー)を(標識に)かぶせてヒモで締めると手軽で取り外しやすい、取り付けもやりやすいという」
裁断機やミシンを買い増し、縫製する人を増やすなどして78年の1月ごろから半年でおよそ24万枚をつくりました。多い時には一日で数百万円の入金があり、砂辺松福テントのいまを支える仕事の一つとなりました。
730当日は、那覇市内の歩道橋から世代わりの瞬間を見届けたといいます。
砂辺松福会長「目標を持って執念を持って情熱を持って、子どもたちや孫たちを含めて社員の家族みんながいい生活、いい教育、いい人材が生まれる」
復帰から半世紀、いまの私たちにとって何気ない日常の中に、戦後貧しい時代をたくましく生き抜いてきたウチナーンチュたちの知恵や思いが込められています。