沖縄復帰を様々な角度から考えていく企画「復帰50の物語」です
「ザンビアのビッグママ」という言葉をご存じでしょうか。
43回目の今回は海を渡って異国の地で活躍を続け波乱万丈ともいえる女性の人生とバイタリティーをもって夢の実現に突き進んだその秘められた思いに迫ります。
本土復帰50年目の節目の年に開催された「世界のウチナーンチュ大会」沖縄から1万キロメートル以上離れたアフリカ地から参加した1人の女性がいます。
「ザンビア沖縄県人会のみなさん、お帰りなさい」
御年88歳、日本人で初めてザンビアに渡った女性として知られる高良初子さんです。大会には1度も欠かさず参加しています
ザンビア県人会高良初子さん「(大会は)嬉しいですね。賑わいましたね今年は、一人ひとりに握手したい、おめでとうと言いたい」
「おかえりーようこそ」「初子さんですか」「良かった良かった元気でいらっしゃるみたいね」
パレードにはザンビアを訪れたことのある仲間と参加しました
大里中学校 宮良孝さん「パワーの源、88歳になってもきょうのパレードもしっかり歩いているし、とてもすごいですね、あのビッグママですアフリカでもビッグママと言ったら直ぐわかりました」
ビックママこと高良初子さんの生き様を探りました
高良初子さん1933年12月12日、那覇市小禄に生まれました。10代で沖縄戦を経験し青春時代をアメリカ統治下で過ごすことになります。
高良初子さん「私はあの当時、若い女性ですので、アメリカ支配を見たりアメリカの兵隊さんがよくやって下さる方もいるけど、でも悪い人もいますし、いろいろなんて言う平常な付き合いではないでしすから、人間のヒューマニズムなんないですよ」
高校を卒業し花嫁になるのが夢で琉球大学の家政学部に進みますが家庭の事情で大学を余儀なく辞めることになります。
高良初子さん「(中退は)私の意思でどうしようもなかった。母が病気だったので看病して弟と私2人だけですので、父は戦死していますフィリピンで」
母親の世話に明け暮れ大学への復学は叶いませんでした。その後も家計のため複数の会社を転々とする生活が続きました。30歳を過ぎたころ弟が自立したため初子さんは自分の人生を生きるために行動しました。
高良初子さん「沖縄と外国の子どもたちが集いあって、いまでいうインターナショナルスクールですよね、そういう琉米親善の学校を建てたいと思っていたんです」
貧困から抜け出すためには教育しかないと考えはじめた初子さんは、東京の大学で学びなおしを決意します。夢だった海外留学のため勉強と仕事の二足のわらじをはく生活をしていました。
海外留学で成し遂げたいこと・・それは琉米親善学校を作ることです。
高良初子さん「(ハワイは)同じアイランドで気候も似てますし沖縄から随分親せきの方も行ってらっしゃるし交流はある、だから向こうの子どもたち(が)どうやってシステムでどういう教育システムの中で勉強しているのかなと思いましたから(ハワイ)向こうへ行って調べようと思って」
ハワイに滞在中、沖縄が大きな節目を迎えます。
高良初子さん「1972年に復帰することになるとか、なりそうということを(ハワイで)向こうで聞いたんですよ」
ハワイから帰国して、沖縄に戻ったあと日本の教育システムを勉強するため再び東京にいきます。37歳の時でした。その時すでにイギリスのマンチェスター大学への留学も決意していたといいます。
高良初子さん「(東京にいる)その間に入学金も準備しないといけないし、うんとうんと働いて(生活を)セーブしてねお金を」
夢の階段を登り続ける初子さんは留学先のイギリスで今後の運命を大きく左右することになるザンビアとの関わりが生まれます。
高良初子さん「(ザンビアを)見てこうようと思っただけ、呼ばれたからいったいアフリカという所は縁が遠いですから日本人にしては」
ザンビアに渡った初子さんが見た光景は。
高良初子さん「戦後みたいでした」「平和でしたけど人も静かで優しかったんだけど何もなかった」「食料品も足りていないし、本当に厳しかったです」
当初は2週間のつもりが2ヵ月の滞在になり、現地の学校の窮地を目のあたりにしたことで初子さんは心を動かされていきます
高良初子さん「(ザンビアを)変えようと思うよりも、ここは教育がどうしても力を入れないといけないというのが切実に盲学校を通して」
イギリスに留学していた時ザンビア行きを勧めてくれた男性と結婚してザンビアで生きることを決意しました。ザンビアで教育支援に乗り出すなか、医療が乏しい事に気付き医者を目指す学生への後押しをするなど様々な活動を続けました。
そんな初子さんの情熱に共感した人がいました。ザンビアの建国の父と慕われたケネス・カウンダ初代大統領です。
高良初子さん「(大統領が)私のことをすごく気に入って、あんな日本の豊かな国で心配もない所からわざわざこういう所に来て、盲学校の子どもたちの面倒を見てくれてありがとうと手紙を貰いました」
カウンダ大統領に「私の妹」と言わしめた初子さんは、日本とザンビアの架け橋として教育に留まらずスポーツ振興にも長年携わったことが認められています。
ハワイ・イギリス・そしてザンビアと波乱万丈の人生を歩んできた初子さん。本土復帰50年を迎えた沖縄に願うことは・・
高良初子さん「沖縄を何ていうんですか守礼の国」「守礼の国をチム(心)に染て、それで大発展してほしいですね。世界に若い方々が万国津梁の鐘をたたいて」「希望をもって世界に目を向けて、しあわせで要は平和で沖縄自体が「ゆいまーる」精神で争いもなく静かに」
日々の生活、そして人生にとって欠かすことのできない「平和」という2文字に尽きます。