続いてはシリーズでお伝えしている復帰50の物語です。今日はその時代に生きた人々の暮らし、かつての陶工の技と思いを今に繋ぐ「やちむん」にまつわる物語をお伝えします。
愛知県 女性「使いやすい感じ手になじむ感じとかいいなと思って」
埼玉県 女性「すごい使っててほっこりするし どんどん集めたくなりますね」
ぽってりとした厚みのある手触りと土の趣きを感じさせる素朴な佇まい。そして沖縄の自然や人々の大らかさを連想させる筆遣いや色合いこそ、他の器にはない 「やちむん」だけが持つ魅力です。
学芸員 又吉幸嗣(またよし・ゆきつぐ)さん「戦後に那覇の町に最初に戻ってきたのは実は壺屋の陶工さんたちなんですね」
陶工:島袋常秀(しまぶくろ・つねひで)さん「やっぱり生活必需品として食器類がですね無いと食器づくりをやってもらおうと」
沖縄戦後、壺屋を中心に進んでいく那覇の復興。しかし、皮肉にも街の発展が陶工たちを岐路に立たせたのでした。
陶工:島袋常栄(しまぶくろ・じょうえい)さん「煙害が非常に問題になって」
暮らしを彩るやちむんには時代の波に翻弄されながら懸命に技術をつないだ歴史と 伝統を守りたい継承したいという陶工たちの熱き想いがこめられていました。
学芸員:又吉幸嗣さん「1616年の朝鮮人陶工による技術指導がきっかけで陶器生産が始まったとされています」
およそ400メートルの石畳に窯元やショップが軒を連ねる「壺屋やちむん通り」の一角に沖縄の焼物文化に触れられる那覇市壺屋焼物博物館があります。
学芸員:又吉幸嗣さん「色んな地域からの技術というのが伝わって持ち帰ってきて琉球の陶器の独自性 というのが次第に形作られていったのかなと思う」
遡ること340年、江戸時代の前期にあたる1682年に琉球王府が各地に点在していた陶工たちを1か所に集めます。その場所はいつしか 陶器を作る職人たちが暮らす場所=「壺屋」と呼ばれるようになりました。当初は王府が管理していた窯も、沖縄県が設置されると民間の窯となり盛んに作陶が行われました。
そんな中、沖縄を大きな戦火が襲います。
学芸員:又吉幸嗣さん「戦時中になると沖縄に外から物が入ってこなくなるということで物資不足になると「壺屋の焼物で代わりを作っていく代用品を作るというところですね」
道具をつくる補給部隊に配属された陶工たちは、「兵器」を作っていたのではないかと言われています。
学芸員:又吉幸嗣さん「手りゅう弾ですとか地雷ですかね、それもどうやら作らされていた」「普段生活の器を作る人たちがそういったものを作る状況だったっていう」
終戦を迎えたとき、那覇は焼野原と化していました。
学芸員:又吉幸嗣さん「コーラ瓶を切ってコップにしたり、使えなくなった飛行機を剥してジュラルミンというんですけどジュラルミンでやかんを作ったりだとか」
お世辞にも快適とは言えない苦しい生活を良くしようと戦火を生き延びた「壺屋の陶工たち」に白羽の矢が立ったのです。
学芸員:又吉幸嗣さん「1945年の11月に 壺屋の陶工103名が」「壺屋に戻ることを許されたと」
幸いにも農村地帯だった壺屋は戦争被害が少なかったといいます。民間の立ち入りが制限されていた那覇にいち早く戻った陶工たちは1か月ほどで収容所の人たちへやちむんを配ることができたといいます。
学芸員:又吉幸嗣さん「陶工だけでなく一般の人たちも暮らしていって」「那覇の復興というものは壺屋から始まったといわれている」
壺屋から上がった復興の炎。その後、壺屋を中心に那覇の街は栄えていくことになります。そして1972年に沖縄が本土復帰を迎える中、壺屋焼は「最大の危機」に直面していました。
「公害防止条例1972年」
陶工:島袋常秀(しまぶくろ・つねひで)さん「壺屋というのは、薪を使った登り窯で焼物を焼いていたわけですね、ところが煙がいっぱい出るんですね」
1967年に壺屋地域を撮影したものです。登り窯から上がる黒い煙が周囲に立ち込める様子が見て取れます。本土復帰に伴い県は「沖縄県公害防止条例」を制定、同じ年に那覇市も市の公害防止条例を出し住民の生活環境を守るための規制を設けました。
陶工:島袋常秀(しまぶくろ・つねひで)さん「焼物をやり続けたいんだけどどうするんだという時に一部の人はガス窯とかそういう灯油窯とかを使ってここ(壺屋)でやっていこうと、もう1つは那覇市から出ていって他の地域で登り窯を焚きたいと」
「形」を変えても壺屋の地で続けるか。それとも新しい土地で伝統ある「技法」を続けるか。陶工たちは苦渋の選択を迫られました。
陶工:島袋常秀(しまぶくろ・つねひで)さん「薪窯の持つ良さというんですかね薪の炎が直接物にあたることによって焼物に変化をもたらすと」「僕は登り窯を焚きたいというのが気持ちでした」
登り窯で制作を続けようと多くの陶工が新天地を求めました。先駆けとなったのが、のちに沖縄で初めて人間国宝となる金城次郎さんです。こうして新たな窯場となったのが「読谷村」でした。
陶工:島袋常秀(しまぶくろ・つねひで)さん「読谷の土地というのはそれをやるだけの空間があった(ということですね)というのもここは本当は基地だったんですよ。それが東側の基地の方に移動されて空いた状態だった」
大きな発展を遂げた「やちむんの里」には現在19の工房があり、村内全体には70を超える工房が存在します。
新しい技術を取り入れることで歴史ある「壺屋」に残ることを選択した陶工がいます。45年間、壺屋で作品を生み出して続けてきた伝統工芸士であり現代の名工でもある島袋常栄さんです。壺屋のシンボル「うふシーサー」を制作した一人でもあります。
陶工:島袋常栄(しまぶくろ・じょうえい)さん「先祖から残されたこの窯業の仕事をですねいつまでもこの壺屋地域で絶やさないために」「今後も継承していきたいという気持ちがある」
現在壺屋にある、11の窯元はガス窯や電気釜など新しい技術を用いて作陶を続けています。壺屋で陶器生産がはじまっておよそ340年。新たな技術に変わっても、新たな場所に移っても陶工たちのやちむんに込める思いは変わりません。
陶工:島袋常栄(しまぶくろ・じょうえい)さん「自分たちがこれまでやってきた何十年という陶工生活を無にしないためにも今後どこで焼物の仕事をやろうと」「壺屋焼の名前を受け継いで今後もやっていくと思います」
陶工:島袋常秀(しまぶくろ・つねひで)さん「ガス窯だから良くないとか登り窯だからいいとかそういうもんではない」「窯がどうであれ良いものは良いんだというのがありますよね」「私がやっていること自体がこれからの後継者にも繋がっていけたらいいなと思っています」
昔も今もろくろは回りやちむんはこれからも暮らしを彩り歴史をつなぎます。