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シリーズでお伝えしている復帰50の物語。きのうから旧盆がはじまり、現在、コロナ禍でなかなか親族を集めては出来ないかもしれませんが、先祖をお迎えしていると思います。今回は、旧盆・仏壇行事から見る復帰前・復帰後の移り変わりについてです。

ウートートーする子どもたち。本土復帰前後の1970年代に撮影された、旧盆の光景です。当時と今で変化したもの、そして、変わらぬものは何でしょうか。

照屋漆器店 照屋ハツ子さん(90)「高級品を作ったって売れないでしょ。もう一番売れるのは位牌、終戦当時一番売れるのは位牌。軍から払い下げになった材料で作っていたのよ」

復帰50の物語 第31話 旧盆にまつわるエトセトラ

先祖をまつる位牌・トートーメーにも、アメリカ軍統治下の影響がありました。これは、終戦から2年後の1947年に、米軍が出した指令書です。

「御盆ヲ沖縄ノ宗教祭日トスル告知」「この年の旧盆を公休日として認可し、沖縄民政府職員らは休んでよい」とされていて、米軍が民政府職員の服務や組織なども厳しく管理していたことがわかります。

旧盆ナカビのきょうは、本土復帰前の旧盆にまつわるあれこれを証言や資料とともに振り返ります。

再開発が進む那覇市開南エリア。この通りは、つい最近まで仏壇屋が立ち並んでいて、“仏壇通り”と呼ばれていました。その一角にある照屋漆器店は、1868年創業の老舗です。

照屋漆器店 照屋ハツ子さん(90)「飛行場でタクシー乗ろうとしたら、開南通りお願いしますと言ったら、仏壇通りかと言ったわけ。あーあの仏壇通りなーと言って、タクシーの方たちが話していたから、流行らせたのは、タクシーの運転手じゃないかなと思う。はっきりはわからんけど」

仏壇通りの歩みに詳しい照屋ハツ子さんです。開南で仏壇・仏具が売られるようになったのは、戦後のことだといいます。琉球漆器の職人たちが多く暮らしていた若狭は終戦後立ち入りができなくなったため、開南に移ることになったのです。

ハツ子さんの夫・林一さんもそのひとりでした。

照屋漆器店 照屋ハツ子さん(90)「終戦なって位牌が全部焼かれて無い、何かも焼かれてなくなったから、地方の人が位牌買いに寄ってきたから、これはもう位牌は成功するねと思ってみんな位牌に手かけて、それで仏具を広げたわけですよ」

位牌を求める人々の姿を見て、照屋漆器店では、長年培ってきた技術を、民芸品ではなく、位牌に注ぐことに決めました。

照屋漆器店 照屋ハツ子さん(90)「作っても作っても足りなかったもん、だから夜明けどおし、うちなんかその当時仕事したの、主人と2人」

「トートーメー」と呼ばれる沖縄の位牌には、琉球漆器の螺鈿や堆金の技法が使われていて、工芸品のような美しさがあります。位牌の形は、かなり複雑で、漆塗りや装飾をする面も多く製造には高度な専門技術が欠かせません。

復帰50の物語 第31話 旧盆にまつわるエトセトラ

漆器職人歴40年 上原修さん「(位牌の)難しさは、たぶん業界の中でもトップクラスだと思います。(琉球漆器を)40年やってもやはり難しいです」

本土復帰前は、材料の確保にも苦労しました。

照屋漆器店 照屋ハツ子さん(90)「何かも大変。材料自体も、もう大変。だからその当時の位牌は、軍から払い下げになった材料で作っていたのよ」「もう全部2×4(ツーバイフォー)、家作るのも2×4、何するのも2×4だったよ」

2×4(ツーバイフォー)とは、木材の規格寸法のことで、アメリカの工法で使われています。漆も手に入らなかったため、軍の払い下げ品で代用しました。

復帰50の物語 第31話 旧盆にまつわるエトセトラ

照屋漆器店 照屋ハツ子さん(90)「ペンキのちょっと高級なもの、これ軍の払い下げでしよったわけ。それを溶かして、ニスで溶かして書いてた」

当時は、代用品で作られた位牌であっても「7人立ち」とよばれる大きめのものが好まれたそうです。

照屋漆器店 照屋ハツ子さん(90)「1人だったら、小さいのでもいいんじゃないのって言ったら、田舎のおばあたちは、これはもうむーるやんろーって。買ったら私のでしょうと。何人入れようが買ったら私のだから、これが私はいいと言って」

戦後の混乱、本土復帰と世の中が大きく変わっても大切にされてきた仏壇行事。人々の暮らしが豊かになるとともに、悩みの種も…

今のようにマイカーが多くなかった時代、旧盆中はいつも以上にタクシーが住民の足として頼られていました。1961年に、タクシー会社が、琉球政府に申請した文書です。

旧盆期間中に、臨時でタクシーの台数を増やしたいというもので、44の業者から合わせて54台の申請がありました。その挨拶まわりに欠かせないお中元は、人々の暮らしが豊かになるとともに、悩みの種にもなっていたようです。

農林局のラジオ原稿より「今朝はお盆の贈り物についてお伝えしましょう。盆の費用については、なやみのたねだと思います」農林局の広報宣伝用のラジオ放送の原稿です。

農林局のラジオ原稿より「聞くところによりますと、年々贈り物は高価なものがよく売れるようになっているとのことですが、かならずしも値段の高い物がよい贈り物だとは言えません。自家の生産物や自家栽培のお花なども贈り物のひとつとして、よい方法です」

本土復帰を4年後に控えた1968年には、お中元が高価なものになりすぎないようにと提案しています。

復帰50の物語 第31話 旧盆にまつわるエトセトラ

照屋漆器店7代目 照屋慎さん「昔は蛍光灯が付いてなかった。提灯棒もなかったですね。提灯棒にコンセントがついたりとかこういった工夫するのは沖縄仏壇ぐらいですね」

照屋漆器店の七代目、照屋慎さんは、家業を継いで23年になります。時代に合わせて、仏壇や仏具も形を変える必要があると感じ、12年前から壺屋焼きなど沖縄の伝統工芸とコラボした商品開発もしいます。

照屋漆器店7代目 照屋慎さん「私達のお店の形とか、形状が変わっていくっていうのは、お客さんの心の変化だと思ってますので、私達もそれに合わせて変化していかないといけない」

去年実施した県民意識調査によると、仏壇行事を「残していくべき」と考えているのは、およそ6割に達しています。年代別では、20代がもっとも肯定的な意見でした。

しかしその一方で、男女別では、女性が半数を下回る結果に… その背景には、仏壇行事に対する負担感もあるようです。

仏壇行事について「負担に感じるか」との問いには、女性の48%あまりが「負担に感じている」ことがわかりました。

復帰50の物語 第31話 旧盆にまつわるエトセトラ

照屋漆器店7代目 照屋慎さん「特に50代60代の中心になっている方々から意見が出ていますので、彼女たちの負担を減らしてあげたい」「男性の方々もただ床の間でお酒とか、食事するだけではなくて、少しでも旧盆や清明のお手伝いをしていただきたいなと思っています。こういったものは変えるべきかなと、少しでもいいので、ちょっとずつでもいいので、こういったことをやることによって文化風習を守っていければいいのかなと思っています」